> 風船たちの神さま > 不吉な夢

不吉な夢

 わたしは暗がりの中にいた。久実くみがスポットライトで照らされたように、闇の中に浮かび上がって立っている。
 春花はるか、ごめんな――久美は泣きながらわたしに謝った。
「久美は悪くない! 久美は何も悪くないんだからね!」
 わたしはそう叫びながら、久美のそばへ駆け寄ろうとした。だけど、どういうわけか身体が重くて思ったように動けない。
「二枚舌!」
 誰かの声が聞こえた。その瞬間、後ろから何かがヒュンと、わたしの頭のすぐ左を通り過ぎた。それは矢だった。
 久実を見ると、久美の右の胸に一本の矢がぐさりと突き刺さっていた。
「久美!」
 わたしは久美を助けようとしたけど、やはり身体が異様に重くて動けない。
 よろけて倒れそうになった久美は、刺さった矢をつかみながら何とか踏みとどまって立っている。わたしに向けられた久美の目は、許しと救いを求めているように見えた。
「疫病神!」
 再び声が聞こえた。わたしの頭の右をかすめた別の矢が、久美の左胸に刺さった。久美は苦しそうに口を開いたまま、わたしに何かを言おうとしていた。しかし、二本の矢のせいで声が出ないようだ。
 わたしは必死に久美の元へ行こうとした。だけどあせれば焦るほど、身体はどんどん重くなる。足だけでなく腕までもが、おもりをつけられたように重い。まるで見えない何かに身体が押しつぶされそうだ。
 久美は両手で胸に刺さった矢をつかみ、よろけながらつぶやくように言った。
 ――春花……、こがぁな、うちの……、友だちになってくれて……、ありがとう……。
「この偽善者め!」
 ののしりと同時に、わたしの頭上をかすめて矢が飛んだ。矢は久美のひたいを貫き、久美は後ろへゆっくりと倒れていった。
「久美!」
 わたしは大声で叫んだ。久美は倒れたまま動かない。
 わたしは矢を射た者を見定めようと、後ろを振り返った。だけど後ろは真っ暗闇で、人の姿は見えない。ただ、久美を馬鹿にして笑う大勢の声が遠くの方で聞こえた。
「お前たちは何だ、この卑怯者! ひきょうもの  そんなとこでこそこそしてないで姿を見せろ! 姿を見せて、わたしと戦え! わたしが久美のかたきを取ってやる!」
 わたしは闇に向かって怒鳴った。でも相手にはわたしの声が聞こえていないのか、わたしには何の反応もないまま、久美を嘲笑あざわらい続けている。
 わたしは身体の向きを戻すと、久美のそばへ行こうとした。まだ身体は重いけど、さっきよりは幾分動けるようだ。
 わたしはカメが移動するみたいな速度で、じわじわと久美の方へ向かった。だけど、どれだけ進んでも、久美との距離は縮まらない。そうしているうちに、久美の身体は闇の中に溶け込むように消えていった。

「久美!」
 わたしは叫びながら目を開けた。辺りは真っ暗だけど、さっきの闇とは違うようだ。身体はやっぱり動きにくかったけど、重いと言うのではなく、何かが身体に巻きついているみたいだ。その何かと格闘しているうちに、わたしは自分が病室のベッドで寝ていたことを思い出した。わたしは自分で布団を身体に巻きつけていたらしい。
 闇の中で四苦八苦しながら、わたしはようやく布団を身体から引き離した。
 急いで枕元の明かりをつけると、ベッドを囲むカーテンが、暗がりの中に照らし出された。暗い病室の中で、ここだけが別の空間のように見える。
 今のが夢だったとわかったことで、わたしは気持ちがいくらか落ち着いた。それでも完全に落ち着いたわけではない。本当に久美が殺されたような想いが残っていて、胸の中では今も怒りと悲しみが渦巻いている。
 それにしても嫌な夢だった。あんな不吉な夢なんか二度と見たくない。でも一方で、今すぐ夢の中に戻って久美を助けたいとも思っていた。
 どうしようもない憤り いきどお とやるせなさで、わたしは拳で枕を何度もたたいた。それで少しは怒りが収まると、どうしてあんな夢を見たのだろうという想いが浮かんで来た。
 満里奈まりなたちや早苗さなえから聞かされた久美の話や、久美の手紙の文面に抱いた不安が、こんな夢を見させたのは間違いない。それでも、本当にそれだけが夢を見た理由なのだろうかと、わたしは考えた。と言うより、わたしには今見た夢が、久美が送ってよこした念のような気がしてならなかった。
 久美と谷山たにやまの関係を疑ったとき、久美はわたしから遠い存在になっていた。だけど、今は改めて久美を近くに感じている。そう、久美とわたしは特別な関係なんだ。
 前はなんとなくそう感じていた。だけど、今は絶対そうだと確信している。
 光の存在によって体験させられた様々なことが、わたしを大きく変えた。わたしは以前のわたしではない。わたしは自分というものが、みんなが考えているようなものではないと理解しているし、生まれる前というものがあったのだと知っている。
 わたしがお母さんの子供になったのも、偶然そうなったんじゃない。生まれる前から、そう約束していたからだ。それはおそらく、お父さんや兄貴との関係においても言えることだろう。同じように、わたしと久美は生まれる前から、親友になる約束があったのだと思う。
 いや……違う。約束なんかじゃない。もっと深くて強い関係だ。初めからずっと一緒にいたような、そんな感じがする。それは有り得ないことではないだろうし、きっとそうだと強く感じている。だからこそ、久美の想いがあんな夢となって、わたしに伝わったのに違いない。
 だとすれば間違いない。久美はわたしに助けを求めている。わたしに謝りながら、助けてって叫んでいるんだ。
 わたしは居ても立ってもいられなくなった。でも今は入院中だし、久美の居場所もわからない。お母さんはわたしが久美を探しに行くことを許してくれないし、探しに行かせるお金もないと言った。
 不安はどんどんつのっていくけど、今のわたしには何もすることができない。だけど、このままでは本当に久美がどうにかなってしまいそうな気がする。あぁ、どうすればいいんだろう。
 しばらく悶々もんもんとした気持ちで座っていたけど、わたしはもう一度横になって、枕元の明かりを消した。途端とたんにカーテンに仕切られた空間は、再び闇の一部になった。
 わたしは真っ暗な天井を見つめながら、あの光の存在に訴えた。
「お願い、力を貸して! 久実が危ないの!」
 きっとあの光の存在なら何とかしてくれる。そう期待して訴え続けたけど、光はちっとも現れてくれない。こちらの都合で呼んでも、だめなのだろうか?
 わたしは光の存在のお陰で、自分と身体の関係や家族の愛を思い出し、自分自身を受け入れることができた。だから、もう光の存在は現れる必要がなくなったのだろうか?
 あるいは久実は他人だから、久実の問題は久実が自分で解決しないといけないのだろうか? それとも、久実には久実自身の光の存在がいるということなのか?
 たとえそうだとしても、何とか言ってくれたらいいのにと思う。黙ったまんまなんて、久実のことなんかどうでもいいみたいだ。
 でも、わたしはすぐに思い直した。あの優しさといたわりに満ちた光の存在が、久美のことをどうでもいいだなんて思うわけがない。
 それに、わたしと久美は生まれる前から一緒だった。それは光の存在だってわかっているはずだ。だから、光の存在が久美に対して知らんぷりをするとは思えない。だけど、だったらどうして出て来てくれないのだろう?
 わたしは自分が早苗に言ったことを、ふと思い出した。
 つらいことがあっても、それを乗り越えるのを光の存在は見守っている。そうか、今は光の存在は、わたしたちのことを見守っているってことか。それは逆に考えれば、今の状況はわたしが一人で乗り越えられるということだ。
 なるほど、そうなんだ。わたしは納得してうなずいた。普通に考えれば、乗り越えられるはずがないように思えるけど、きっと何かいい方法があるに違いない。
 わたしは懸命に考えた。だけど、やっぱりいい考えが浮かんで来ない。
 そもそも久美がどこにいるのかを知らないし、一人で四国しこくへ行くためのお金も手段も持ち合わせていない。
 体力もない病み上がりのわたし一人に何ができるのか。何にもできない。そう、わたしは無力な役立たずだ。
 気持ちが泥沼に沈んで行きそうになったわたしは、大きく首を横に振った。だめだ、だめだ。これじゃあ、前のわたしと同じだ。
 あの幼いわたし・・・が同じように落ち込んだなら、絶対無理だからあきらめなさいって言うのか。そんなことを言うはずがない。きっとうまく行くから、あきらめちゃだめよって言うはずだ。
 ――だけど、どうすればいいの?
 闇の中から、幼いわたし・・・が途方に暮れた目をわたしに向けている。
「どうするかは、これから一緒に考えよう。とにかくあきらめないこと。それに、わたしたちには相棒がいるでしょ?」
 わたしの気持ちが伝わったのか、幼いわたし・・・はにっこり笑うと姿を消した。
 わたしは身体を起こすと、また枕元の明かりをつけた。再びベッドの上が闇から切り取られて別の空間になった。
 わたしはベッドの横にある棚の引き出しを開け、中から手鏡を取り出した。これは母が家から持って来てくれた手鏡だ。
 わたしは鏡に自分を映した。そこに映っているのはわたしだけど、正しく言えば、これはわたしの身体だ。鏡の中のわたし・・・は、にっこり微笑んでいる。
 ――あなたが望むようにして下さい。わたしはいつでも一緒です。
 身体のわたし・・・ささやいてくれているような気がした。わたしはうれしくなって泣きそうになった。
 そうよ、あなたはわたしの一番の相棒なの。わたしの身体さん。あなたがいる限り、わたしは何でもできる。できないとすれば、それは自分がやろうとしないから。自分でやると決めたなら、あなたはわたしに従って動いてくれる。
 わたしは自分の身体を抱いて、ありがとう――と感謝した。失いそうになっていた自信が再び戻って来た。
 きっとできる。きっと久美を助けられる。わたしの胸に希望が広がった。
 わたしは改めて考えた。でも、漠然と考えるのではない。自分がどうしたいのかを整理して、そこで何が問題なのかを見極めるんだ。問題をはっきりさせなければ、答えは見えて来ない。
 わたしの望みは、久実に会いに四国へ行くことだ。向こうでどうするかは別に考えることにして、まずはどうやって四国へ行くかだ。
 わたしは腕組みをして考えをめぐらせた。だけど、どんなに気合いを入れ直したところで、やっぱり問題はお金だ。お金がないと始まらない。
 自信を取り戻したはずのわたしは、再び心が折れそうになった。そのとき、どういうわけか棚の上に載せてあった本が、ばさっと床に落ちた。ちゃんと載せておいたのにと文句を言いながら、わたしはベッドから手を伸ばして、落ちた本を拾い上げた。
 明かりの下に置かれた本は、クイズの本だった。わたしが退屈するだろうと、兄貴が買ってくれた物だ。
 わたしは何を考えるでなく、その本を手に取ってページをめくった。中には、いろんな面白い問題や変わった問題が載っている。
 わたしが問題が解けずに本を放り出すたびに、兄貴はわたしができなかった難問を難なく解いてみせた。そのときの得意げな兄貴の顔が目に浮かぶ。
 久美のことを心配しているはずなのに、頭の中で兄貴が偉そうにしゃべり始めた。
 ――お前な、諦めるのがはええんだよ。どんな問題だって、必ず答はあるもんだぜ。
 病み上がりの妹を励ますのが兄だろう。なのに、うちの兄貴は妹をからかう対象としか見ていない。
 思い出したいわけじゃないのに、思い浮かんだ腹立たしい記憶はなかなか頭から離れてくれない。わたしは今四国へ行く方法を考えているんだぞ。邪魔すんなよ。
 わたしは兄貴を追い出そうとして頭を振った。でも、頭の中で兄貴は同じ言葉を繰り返す。
 ――お前な、諦めるのがはええんだよ。どんな問題だって、必ず答はあるもんだぜ。
 あぁ、うるさい、うるさい! そんなことはわかってるってば。わかってるけど、わかんないの。お兄ちゃんみたいに答えがすぐにわかったら、誰も苦労なんかしません! わたしとお兄ちゃんとは違うの!
 心の中で兄貴に反論しながら、わたしはふと思った。兄貴には答えがわかって、わたしにはわからない。同じ兄妹なのに何が違うんだろう?
 兄貴は頭がよくて、わたしは馬鹿だから。違う、そうじゃない。それは問題が解けない言い訳だ。わたしと兄貴は何が違うのか?
 ――発想の転換だって。こうに決まってるっていう思い込みを捨てるんだよ。
 頭の中で、兄貴がわたしに説教をする。だけど、それはクイズの話だ。今わたしが抱えている問題は、そんな遊びじゃない。お金も何もない病み上がりの中学生に、何ができるかっていう真面目な話だ。
 妄想の中の兄貴に文句を言いながら、でも、これだって思い込みかもしれないと、わたしは思った。考えてみれば、思い込みに遊びも真面目もないだろう。
 わたしは座り直すと、もう一度考えてみた。
 今の問題が解決できないのは、わたしの思い込みのせいだとすれば、何が思い込みなんだろう? だって、お金がなければ何もできない。それは常識だ。
 だけど、それこそが思い込みじゃないのかと、わたしは考え直した。
 よく考えれば、世の中にはいろんな人がいる。お金がなくたって、すごいことをやってのける人だっていた。でもそんな人は特別であって、自分にはそんなことは無理だと思ってた。そもそも自分もそんなことをやってみたいと考えることもなかった。
 でも、今はお金がなくても四国へ行けるなら、それがどんなことだって挑戦してみたいと思ってる。自分には無理だなんて考えるつもりもない。
「お金がなくても四国へ行ける。そんなのは絶対無理だって思ってたけど、これは思い込みだ。そうなんだ。お金がないと何もできないっていうのは、わたしの勝手な思い込みなんだ。うん、きっとお金がなくても四国へ行く方法はあるし、それを探せばいいんだ」
 わたしはうなずいた。何だか、わたしの前に一筋の光が降りて来たみたいだ。後ろで光の存在が笑っているような気がする。
 そうだ。最悪どうしようもなかったら、歩いて行けばいい。絶対に行けないなんて有り得ない。
 だけど、それは最悪の場合だ。それに歩くのは時間がかかる。お金をかけずにもっと速く行ける方法はないだろうか。
 少し考えて、そうだとわたしは思った。ヒッチハイクだ。
 いつだったかテレビの番組で見たことがある。お金がほとんどない外国人が、ヒッチハイクで旅行をしていた。もちろん、そんな簡単に車を出してくれる人はいないけど、それでもゼロじゃない。待っていれば必ず親切な人が現れて、車に乗せてくれるんだ。そればかりか食べる物を分けてくれたり、家に泊めてくれたりもしていた。
 これだ、四国へ行ける!――わたしははしゃいだ。思わず大きな声を出してから、ここが病院だと思い出し、わたしは慌てて両手で自分の口を押さえた。
 幸い部屋がわたし一人の貸し切りになっていたからよかったけど、隣の部屋の患者さんは起こしてしまったかもしれない。
 その患者さんに心の中でごめんなさいと謝りながら、わたしは喜びを抑えきれずに、ベッドに座ったまま跳びはねた。
 ヒッチハイクなんか恥ずかしいとか、乗せてもらえないかもという考えは、微塵も浮かんで来なかった。
 事情を説明すれば、きっと助けてくれる人はいるだろう。途中までだってかまわない。そこからまた親切な人を探せばいいんだ。でも、どうせならトラックがいいかも。トラックだったら遠い四国まで一気に運んでもらえるかもしれない。
 目指す場所は、手紙の消印にある伊予灘いよなだ郵便局だ。伊予の海という意味だろうから、久実のおばあちゃんの家がある所だと思う。郵便局の人に聞けば、きっとおばあちゃんの家を教えてもらえるに違いない。
 わたしは気がついた。これまで自分は何もできないと思っていた。でも、それは本気でやろうとしていなかっただけなんだ。
 久美については、わたしは本気だ。だから何があっても、わたしは久美の所へ行くつもりだし、絶対に行ける。行ってみせるから。
 問題はお母さんだ。お母さんがどれほど、わたしを愛してくれているのか、わたしはよくわかっている。お母さんを心配させたり悲しませたりすることは、何より苦痛だ。
 学校で何があったのか、これまでわたしが何をして来たのか、わたしは何もかもお母さんに話した。だけど、お母さんはわたしをしかったりせず、わたしの気持ちがわからなかったことを謝ってくれた。
 お母さんが四国行きを反対するのだって、わたしのことを心配しているからだ。そんなお母さんを裏切るように思えることだけが、わたしを躊躇さ ちゅうちょ せた。
 でも、お母さんならわかってくれる。久実が本当に危ないということが、おかあさんは理解できていないだけだ。それがわかれば、お母さんはわたしを許してくれるだろう。お母さんはそういう人だ。
 わたしはお母さんを信じている。それに万が一にも久美に何かがあったなら、お母さんまでもが悲しみに打ちひしがれるに違いない。
 わたしが久美を助けに行くことは、お母さんを助けることにもなる。わたしは大きくうなずいた。

 退院して家に戻ると、わたしは真っぐ自分の部屋へ向かった。部屋の中は、倒れたときのまま時間が止まっているような感じだった。
 わたしは自分が倒れていた場所に立ち、あのときのことを思い出していた。
 あのとき、わたしは自分の身体を離れて宙に浮かんでいた。そして、下で倒れている自分の身体に、すべての責任を押しつけて悪態をついた。
 どうしてあんなひどいことができたのか。わたしは自分の身体を両腕で抱くと、ごめんね――と言った。
 身体が温かくなった。身体のわたしが、わたしに愛を送ってくれたのだろう。同時に、うれしそうな風船たちが、イイノ!――と叫ぶ声が聞こえる。
 みんな元気? わたし、みんなのこと大好きだよ。これからもずっと、みんなのこと大切にするからね。
 風船たちや手毬てまりたち、クラゲたちが楽しそうにわたしの周りを泳いでいる。真っ黒になっていた虹の森も復活し、わたしが呼吸をするたびに、美しい七色の光に輝いている。
 枯れ草だらけだった原っぱも、今は一面にきれいな花が咲き乱れ、辺りは七色のホタルが飛び交っている。
 わたしをめた壁も忙しそうに舌を動かし、赤い大蛇たちも力強く動いている。だってほら、わたしはこんなに動いているんだもの。
 そして、あの大きな球体の大蛇たちも、今は喜びに満ちている。あの大蛇たちにみついている白いヘビは、わたしの愛を大蛇たちに伝えているの。それを大蛇たちはわたしの世界中に広めている。
 みんな、大好きだよ。みんなのこと、いつまでも愛してるからね。
 わたしの声に応えるように、わたしの身体のすべてが活き活きと活動しているのがわかる。あぇ、生きているって何て有り難くて素晴らしいことなんだろう。わたしは一人じゃない。みんなが支えてくれているんだ。
 そうだ、わたしはもう一つ大切なことを思い出した。
 わたしの喜びは誰かが喜ぶこと。だからこそ母を喜ばせたいと思っているし、久美や早苗のことも喜ばせたい。わたしがこの世界に生まれたのは、みんなを喜ばせたいからだ。
 自分に何ができるのかはわからない。でも、ちょっとしたことで構わない。相手が喜んでくれさえすれば、それでいいんだもの。すごいことや目立つこと、認められたり褒められることが目的じゃない。人を喜ばせることが目的なんだ。
 それはきっと久美だって同じだろう。久美の無事を確かめられたなら、わたしはすべてを久美に話し、喜びを広げる計画を一緒に立てよう。考えただけでわくわくする。でも、そのためにまずやるべきなのは、久美の所へ行くことだ。

 夕食はわたしの退院祝いで、赤飯やらたいやらとずいぶんご馳走ちそうだ。普段、倹約ばかりしている母だけど、この日だけは奮発してくれたみたい。
 それにこの日は、さすがの兄貴もわたしに遠慮して、先にご馳走に手をつけようとはしない。そんな風にできるんだったら、最初からそうしろよな。
 母はわたしが元気になったことを本当に喜んでくれていた。そんな母を再び心配させるのは、やはり心苦しい。でも、もう後戻りはできない。母と兄貴が眠ったら、わたしは家を忍び出るつもりだ。
 四国なんか行ったことがないし、愛媛えひめのこともわからない。唯一の頼りは久美の手紙にあった消印の郵便局だけだ。そこにさえ行けば何とかなる。わたしはそう考えていた。
 父はわたしが退院する前に仕事に戻ったので、今は母と兄貴とわたしの三人だけのお祝いだ。それでも父は電話をくれて、今後のことは何でも力になるから、いろいろ深く考え過ぎないようにと言ってくれた。
 わたしは以前とは違う居場所を手に入れたうれしさでいっぱいだった。その一方で、頭の中は四国へ行くことばかり考えていた。
 いつから学校へ戻るかという話になると、今週は中学校も高校も中間テストだと、兄貴が言った。早紀たちもそんなことを言っていた。それで学校への復帰はテストが終わった来週に決まった。兄貴はテストをしないで済むことを喜んでくれたけど、半分はからかっているのだろう。母は笑いながら服のそでで目頭を押さえている。
 もしまた学校で嫌なことをされたなら、オレが怒鳴り込みに行ってやるからな――と兄貴は言ってくれた。兄貴も前と比べると、とても優しくなった。
 でも、今はクラスのみんながわたしを待ってくれている。そう話したら、兄貴は安心したし、母もうれしそうだった。

 真夜中が過ぎ、母が寝たと思われる頃、わたしは向かいの部屋にいる兄貴の様子をうかがった。
 わたしと兄貴の部屋は二階にある。階段を上がった突き当たりの右がわたしの部屋で、左が兄貴の部屋だ。
 扉越しに兄貴の部屋から音楽が聞こえて来る。兄貴は夜更かしするのが日常だ。特に今は試験勉強をしているはずだから、いつもより遅くまで起きているかもしれない。
「もう、勉強なんかやめて早く寝ろよな」
 わたしは小声で兄貴につぶやき、ベッドの上に横になった。
 下着の着替えなどを詰め込んだリュックは用意してある。母と兄貴に当てた手紙も書いた。出かける前に、食堂のテーブルに置いて行く予定だ。
 準備は万端ばんたんでいつでも出られる。だけど、出発は兄貴が寝るまで待たねばならない。兄貴に見つかれば計画は台無しになるからだ。
 わたしは寝転びながら日本地図を広げた。スマホもパソコンもないわたしは、兄貴に適当なことを言って、伊予灘郵便局の場所を調べてもらった。
 思ったとおり郵便局は愛媛県の海辺で、松山まつやま市より西の方だ。おそらくその近くに久美のおばあちゃんの家がある。
 わたしは愛媛までの道のりを指でたどり、途中にある大きな街の名前を頭にたたき込んだ。
 郵便局を調べてもらったとき、わたしが何か企んでいるんじゃないかと、兄貴はいぶかしんでいる様子だった。でも、わたしに何ができるのよ!――とわざと反発したら、それはそうだと兄貴も納得した。
 ほんとは何だってできる。それをできないふりをするって結構大変だ。
 ふと枕元の時計を見ると、もう一時を回っている。わたしは部屋の扉の所へ行って耳を澄ませた。すると、兄貴の部屋からまだ音楽が聞こえて来る。まだ起きてるみたいだ。
 あぁとわたしは頭をきむしり、さっさと寝ろよと小声で兄貴に悪態をついた。
 それからまたベッドに戻り、兄貴が早く寝るようにと、いらいらしながら祈っていたけど、ひょっとして――と急に心配になった。
 もし兄貴が音楽を流したまま机に突っ伏して寝ていたなら、わたしは家を出ることができずに朝を迎えることになる。それでは計画は失敗だ。
 日中にヒッチハイクをしようとしても、警察に見つかって補導されるような気がする。やるなら今しかないのだけど、兄貴が寝たのがわからなければ、計画を実行できない。
 わたしは枕に顔を押しつけて、うーっとうなった。そして、そのままうとうとしてしまったらしい。はっと目を覚ましたわたしは、しまったと思って飛び起きた。時計を見ると、もう二時になる。
 わたしはベッドから飛び起きると、そっと扉のそばへ行って耳を近づけた。兄貴の部屋の音楽は――止まってる?
 わたしはそっと扉を開けて確かめた。やっぱり兄貴の部屋からは何も聞こえない。
 ――やった!
 わたしは心の中で叫びながら小躍りをした。いよいよ出発だ!
 用意したリュックを背負ったわたしは、二人への手紙を手に持った。それから改めて兄貴の部屋の様子を確かめたけど、何も聞こえないし、中の明かりも漏れ出ていない。間違いなく兄貴は寝たようだ。
 わたしは部屋の電気を消すと、代わりに階段の電気をつけた。すると、階段のスイッチがパチンと鳴った。いつもなら気にならない音が、やけに大きく響き渡る。
 わたしは慌てて電気を消した。すると、またもやパチンと音が鳴り、わたしは声を殺してうめいた。
 暗闇の中で、わたしは兄貴が起きなかったかと物音を探った。息を殺し、同じ姿勢のまま待ったけど、何も音は聞こえない。よかった、兄貴は目を覚まさなかったみたいだ。
 ほっとしたわたしは、もう一度電気をつけようとした。でも、音が鳴るすんでのところで、スイッチを押すのをいったんやめた。それから音がならないよう、慎重にゆっくりとスイッチを押した。
 それでも少しは音が鳴ったけど、さっきみたいな音じゃない。一応は聞き耳を立てて兄貴の様子を確かめ、それから静かに階段を下りた。すると、今度は階段がギシギシ音を立てる。古い家だからあちこちがきしむんだけど、このときだけは静かにして欲しかった。
 お兄ちゃんが起きるじゃないの!――と心の中で階段に文句を言ったが、やっぱり階段は踏まれるたびにギシリと音を出す。
 わたしは階段が軋まないよう、できるだけ階段の端っこを踏むことにした。うん、今度は大丈夫みたい。音はほとんどならないぞ。
 喜び勇んでゆっくり階段を下りていると、がらりと上で戸が開く音がした。
 背筋が凍って固まったわたしに、後ろから兄貴の声が呼びかけた。
「おい、待てよ。オレも一緒に行くからさ」