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隣のクラスの転校生

「おはよう。今日は朝ごはん、ちゃんと食べて行きなさいよ」
 二階から降りて顔を洗うと、台所にいた母が声をかけて来た。
 テーブルの上には、トーストと目玉焼きとサラダが用意され、その横には牛乳が入ったマグカップが置いてある。
 先に席に着いていた高校生の兄貴は、自分の分をほとんど平らげていた。あとは口にくわえているトーストだけだ。兄貴はかじった分を、急いで飲み込んで立ち上がった。
「母さん、遅くなるから、オレ、そろそろ行くわ」
「もう行くの? あら、ちょっと翔太郎! しょうたろう  まだ食べ終わってないじゃないの!」
 母はむっとなったけど、兄貴はそんなことはおかまいなしだ。トーストの残りをくわえ直すと、さっさと自分の食器を重ねて母に手渡した。
「お弁当は持ったの?」
「もうかばんに入れてある」
 トーストを手に取った兄貴は、口をもぐもぐさせながら言った。母は何か言いたげだったけど、気をつけてね――としか言わなかった。
 兄貴はわたしに向かって意気揚々と片手を上げると、わたしの横をすり抜けて行った。
「わたしも、もう行く!」
 わたしが兄貴のあとを追いかけようとすると、後ろで母が怒る声がした。
「だめよ、ちゃんと食べて行きなさい」
「お兄ちゃんだって、食べてないじゃない!」
「お兄ちゃんは食べました。春花はるかは今日は運動会でしょ? 食べないと倒れちゃうよ」
「平気だって。いつも食べなくたって大丈夫だもん」
「だめ! 食べなさい!」
 いつもより強い口調で言われたので、わたしは渋々テーブルに着いた。
 母はいつだって兄貴に甘くて、わたしにきびしい。最近ずっと朝ごはんを食べていないから、目玉焼きを食べたら胸焼けしそうになった。
「ごちそうさま」
 わたしが席を立つと、ほとんど残った朝食を見て母がにらんだ。仕方なくマグカップを手に取って、立ったまま牛乳を飲んだ。でも、半分飲むとおなかがいっぱいになった。
「もういいでしょ? じゃあ、行って来ます」
 飲み残しのカップをテーブルに置き、用意された水筒を持つと、わたしは逃げるように玄関へ向かった。すると母が追いかけて来たので、玄関に降りて大急ぎで靴を履いた。
 早く外へ逃げようとドアノブに手をかけたとき、後ろで母が呼び止めた。
「これ、持って行きなさい」
 振り返ると、母は小さな包みを持っていた。
「それ何?」
「お弁当よ」
「え? もしかして今日、来ないの?」
 胸の中がキュッとなった。母は申し訳なさそうに弁解した。
「ごめんね。昨日まで行くつもりだったんだけど、今朝、急に店長から連絡があってね。午前中だけでいいから、どうしても出て来て欲しいって言われたのよ」
「どうして? 今日は運動会だって言ってあるんでしょ? なんで断らなかったの?」
「だってさ、店長とこの娘さんが怪我をして、病院へ連れて行かないといけないって言うんだもん。断れないじゃない。それに、あなたが出るリレーは午後からでしょ? それには間に合うと思うんだけど、お昼に間に合うかはわかんないからさ。万が一のためよ」
 母は弁当の包みを差し出した。わたしは母をひとにらみすると、その包みを引ったくった。
 兄貴が中学生のときには、運動会にはいつだって開会式前から行っていた。なのに、わたしが中学生になって初めての運動会には来てくれないなんて最低だ。
 母は弁当屋で働いている。朝の暗いうちから仕事に出たり、夕食時間より遅く帰ることもしょっちゅうだ。わたしはやめて欲しいけど、兄貴の学費のためだと言われたら何も言えなくなる。
 日曜日に母親とショッピングに行ったことを、学校で友だちが楽しそうにしゃべっても、わたしはいつも話を聞くだけ。わたしがどんな気持ちなのか、母はちっともわかってない。
 今日だって、午後のリレーを見て欲しいんじゃない。見て欲しいのは午前の終わりにある創作ダンスだ。
「午前だって競技はあるんだからね」
「ほんとに、ごめんなさい。でも、リレーには絶対間に合うように行くからね。がんばるのよ」
 わたしは返事をせずに玄関を出ると、後ろを振り返らないままドアを閉めた。バタンとドアがやかましい音を立てたとき、自転車に乗った兄貴が、まだ少し残っているトーストを口にくわえたまま、目の前をサーッと通り過ぎて行った。
 兄貴の高校は、この辺りではちょっと名の知れた進学校だ。わたしなんか逆立ちしたって入れない。だけど日曜日の今日に兄貴が学校へ行くのは補習じゃない。部活のためだ。兄貴は中学校でバスケットボールをやってたけど、高校でも一年生でレギュラーだ。
 門を出ると、駐車場のゲートが開けっ放しになっていた。いつものことだけど、兄貴はゲートを開けたまま行ってしまう。開けたらちゃんと閉めるようにと、母からしょっちゅう言われてるのに、返事ばかりで同じことを繰り返す。それでも許されているのは、勉強ができるからだ。でも、いくら頭がよくたって、ルールはちゃんと守るべきだ。
 兄貴への憤り いきどお を覚えながら、わたしは駐車場のゲートをガラガラ閉めた。駐車場には、母の可愛らしい赤の軽自動車があるだけだ。わたしが乗る自転車はない。

 わたしが住んでいる家は古い分譲団地だ。お年寄りが多くて、子供の姿はあまり見かけない。あまり活気のない所だけど、安いという理由で父が中古物件を、わたしが小学校へ入るときに購入した。あの頃で築四十年になるって言ってたから、今は築四十七年か。大きな地震が来ればひとたまりもないだろうけど、お金がないそうだから仕方がない。
 家のすぐ近くには林があって、田んぼに水を引く用水路もある。夏になったらセミがうるさいほど鳴くし、蚊もたくさん出て来るへんぴな所だ。東京都内とうきょうと だなんて信じられないほど、ここは都会の匂いがしない。
 でも、ちょっと出た所には立派な高層マンションが建ち並んでいる。わたしたちが住んでいる所とは別世界だ。そこの子たちは持っている物も上等で、何だか気品があるように見える。
 それに大抵みんながスマホを持っていて、いろんな情報を知っている。うちはお金がないので、兄貴が高校に入学したお祝いに、やっとスマホを持たせてもらっただけだ。
 学校へ向かって歩いていると、時折自転車が追い抜いて行く。兄貴みたいな高校生が多いけど、わたしと同じ中学生もいる。いつもは制服姿だけど、今日はみんな運動服だ。
 上級生たちは黙って追い抜いて行くけれど、同学年の一年生は小学校で一緒だった子が多く、みんな声をかけてはくれる。でも自転車を降りて一緒に歩いてくれる子はいない。
 小学一年生のときに、わたしは自転車を買ってもらった。だけど、そのときにひどく転んで以来、怖くて自転車に乗れなくなった。
 学校へ行くには、自転車があった方が便利だと思う。だから、もう一度挑戦してみたい気持ちもないわけじゃない。でも、両親はわたしが自転車嫌いだと思い込んでいる。それに自転車を買うには、結構お金がかかる。だから、今更自転車に乗りたいとは言えなかった。
 しばらく歩いていると、途中の高層マンションから、同級生の女子生徒が二人現れた。山上真弓やまがみまゆみ本田ほんだ百合子ゆりこだ。ここからだと学校も近いので、真弓たちは歩いての通学だ。
 二人はわたしに気がつくと手を上げた。わたしは手を振り返して駆け寄った。
「おはよう。真弓も百合子も、ちゃんと朝ご飯食べて来た?」
 いつもは食べないことが多いけど、今日は目玉焼きと牛乳半分をお腹に入れた。それで少し偉くなった気分で尋ねたけど、二人ともわたし以上にしっかり食べていた。
「春花こそ、ちゃんと食べてんの? 最近痩せたように見えるけど」
「まさか、ご飯を抜いてるんじゃないよね?」
 二人の言葉にどきりとしたけど、まさか――と笑ってごまかした。
 以前、真弓たちは他のクラスの太った子を笑って馬鹿にした。当時、わたしはぽっちゃり体型だったので、痩せなければと減量を決意した。でも食事を減らしたなんて言えば、自分が太っていたと認めたことになる。それは馬鹿にされた子と同じという意味だ。
 母にいろいろ言われながら、食事を減らしてずいぶんになる。最初の頃は、かなりきつかった。空腹がひどくて、授業なんて頭に入らなかった。元々頭が悪いのに授業がわからないから、尚更テストでは点数が悪くなった。体調もよくなくて風邪を引きやすくなった。お陰で母にはしかられたけど、それでも食べないようにがんばった。
 その甲斐かいあって、鏡に移した姿が少しは痩せたように見えた。それでも真弓たちは何も言ってくれなかった。それが今日、ようやく認めてもらえたと言うわけだ。
「そんな不健康なこと、してませんよーだ」
 わたしは喜びを抑えながら言い返した。
「じゃあ、何で痩せたの? 病気?」
 真弓が疑わしそうに言うと、百合子もじろじろとわたしを見た。
「やめてよね。実は兄貴と一緒に、夜、歩いてるの」
「お兄さんと夜に? ほんと?」
 うそだ。昼間バスケットボールに熱中している兄貴が、夜に歩くはずがない。歩くにしたって、わたしなんかと一緒に歩いたりはしない。
「いいよねぇ、春花は素敵なお兄さんがいて」
「ほんとよ。妹と一緒に歩いてくれる兄なんて、どこにもいないよ」
 二人の関心が、わたしではなく兄貴に移った。わたしはほっとしたけど、少し面白くない気分でもあった。
 真弓と百合子には、それぞれ二つ年上の兄と姉がいる。今は同じ中学校の三年生だ。一緒に通学しないのは、お互い友だちといるのがいいからみたいだけど、真弓も百合子も自分たちの兄や姉は冷たいのだと言う。
 二年前、中学一年生だった兄や姉の応援のために、真弓たちは初めて中学校を訪れた。わたしたちは別々の小学校だったから、このときはまだお互いを知らなかった。
 この運動会で、うちの兄貴はいくつもの競技で大活躍した。その姿に真弓も百合子も夢中になったそうだ。その上、兄貴と言葉を交わす機会もあったらしい。二人はすっかり兄貴のファンになり、自分たちの兄や姉を通じて、うちの兄貴の情報を仕入れていた。そのときに真弓たちは、妹であるわたしの存在を知ったそうだ。
 中学校に入学してわたしと同じクラスになると、早速さっそく二人はわたしに近づいて来た。もちろん目的は兄貴だ。
 わたしにすれば、あの高層マンションに住む真弓たちは憧れの世界の人だった。おまけにどちらも美人だ。その二人から声をかけてもらって仲間にしてもらえたのだ。それは、何の取り柄もないわたしにとって驚きであり、とても誇らしいことだった。
 わたしは真弓たちにもっと気に入られようと努力をした。また真弓たちの話には何でもうなずいた。二人に逆らって機嫌をそこない、仲間外れにされるのが怖かった。二人は気に入らない相手のことを見下すので、それだけは何があっても避けたかった。
 兄貴にはいつも反発するけれど、真弓たちと親しくなれたことでは感謝していた。だけど結局、真弓たちが本当に関心があるのは、わたしではなく兄貴だった。それを思うと、とてもむなしくなる。それでも、二人との関係が壊れることが怖いから、本音を口にすることはできなかった。
 そもそも、あんな兄貴のどこがいいのだろうかと、わたしは思う。真弓たちはいい所のお嬢様だけど、きっと男を見る目はないに違いない。
 真弓たちが思うほど、兄貴は優しくない。わたしは気遣きづかいなんか見せてもらったことがない。
 わたしが食事を減らしているのをいいことに、わたしが好きなおかずがあっても、兄貴は平気でそれを横取りする。テレビを見ていても、自分が好きな番組があれば、断りもなくチャンネルを変えてしまうし、妹の前でも平気でおならをする。それがまた臭い。
 真弓も百合子も兄貴の本当の姿を知らないだけだ。それでも兄貴がいるから、二人はわたしを大切に扱ってくれる。わざわざ兄貴のイメージを壊すようなことを口にして、自分の立場を悪くする必要はない。だから、わたしは真弓たちに好きなように喋らせている。
 真弓たちは時々わたしの家に遊びに来る。でも、わたしの部屋には面白いものや見せるものが何もない。だから、二人はすぐに退屈してしまう。それで何だかんだと理由をつけては、隣にある兄貴の部屋をのぞいて、兄貴とお喋りしようとする。て言うか、それが二人の本当の目的だった。わたしは兄貴に会うためのお約束のようなものだ。
 兄貴も兄貴で妹ではない女の子の前では、かっこよくて気さくな高校生を装う。そんなことをするから、真弓たちはますます兄貴に夢中になった。
 わたしの家にいる間、二人がわたしと一緒にいる時間よりも、兄貴と喋っている時間の方がはるかに長い。そんなときは、さすがにわたしは悲しくなってしまう。
「ねぇ、お兄さんの学校って、運動会はいつなの?」
 真弓が尋ねると、百合子も目を輝かせた。
「高校は春だったと思うよ」
 わたしは素っ気なく言ってやった。すると二人は、えー!――と声をそろえて叫んだ。
「それじゃあ、あたしたち来年まで応援に行けないじゃない!」
「あたしたち、お兄さんが活躍するとこ、見たかったのに!」
「しょうがないよ。もう終わっちゃったんだもん。それにね、高校の運動会は生徒だけでするから、どこの家も家族は応援に行かないらしいよ」
 わたしは少しうんざり気分で話をした。二人はぶつぶつ文句を言い続けたけど、こればかりは本当のことだからどうしようもない。
 そのとき、わたしたちの前方に見慣れない女子生徒が現れた。と言うより、追いついたという方が正しいか。その生徒は一人で歩いているのに足取りが遅く、できれば学校へ行きたくない雰囲気だ。わたしと一緒で運動会が嫌いなのかもしれない。見慣れないと言うのは、わたしたちと着ているものが違うということだ。
 その女子生徒が着ている体操服は、ネックが紺色だ。わたしたちのネックは青だから、似ているけど少し違う。でも服よりもっと違うのはズボンだ。わたしたちのズボンは緑色だけど、その子のズボンは紫色だ。
 違う学校の生徒だろうかと思ったけど、この辺りを歩いているのだから、そうではないだろう。もし違う学校なのだとしたら、ここから歩いて行くには遠過ぎる。
「あの子、確か隣のクラスの子よね?」
 真弓が女子生徒を見ながら、眉をひそめた。そうね――と百合子はうなずいた。
「今学期、転校して来た子よ。名前は知らないけど」
 一年生は三クラスある。わたしたちは一組だから、隣のクラスと言えば二組だ。夏休み明けに転校して来たということか。
 一組には転校生がいなかったから、転校して来た者がいたとは思いもしていなかった。体育の時間が二組と一緒だったら、もっと早くにわかっただろうけど、そうじゃないから気がつかなかった。
「何で紫のズボンをはいてんだろ?」
「たぶん、新しいズボンを買うお金がなかったんだよ」
「気の毒に。貧乏な家には生まれたくないよね」
「教科書も前の学校のを使ってるのかもよ」
「お金がないって、ほんと可哀想」
 何も事情を知らないくせに、二人は転校生が貧乏な家の子だと決めつけて馬鹿にした。
 距離から言えば、真弓たちが何を喋っているのかは、転校生には聞こえないだろう。でも、大袈裟おおげさにアハハと笑う大きな声は聞こえているに違いない。
 いつもだったら、わたしも二人に合わせて一緒に笑うところだ。だけど、何故かわたしは、転校生を笑う気にはなれなかった。本当にお金がなくて大変だったとしても、それはうちだって同じだから。でも、それとは別に、わたしは真弓たちに同調したくなかった。
 わたしが黙ったまま笑わないので、どうしたの?――と真弓が言った。
 百合子も怪訝けげんそうにじっと見ている。わたしは慌てて笑顔を繕うと、ちょっと考えごとをしていたと言った。
「考えごと? 何を考えてたの?」
「何って……、別に大したことじゃないよ」
「大したことないのなら、教えなさいよ。何を考えてたの?」
 わたしは困った。転校生のことを何もそこまで馬鹿にしなくてもいいじゃないかと考えていた。そんなことを二人に言えるわけがないけど、他に何と言っていいのか思いつかない。
 二人の視線が、わたしの心の中にまで入り込んで来るみたいだ。耐えられなくなったわたしは、二人が喜ぶことを言うことにした。
「実は、今度の兄貴の誕生日にね、二人を招待しようかなぁって考えてたんだ」
「え、ほんとに?」
「あたしたちを呼んでくれるの?」
 二人は手を取り合って跳び上がった。その様子を眺めながら、どうしよう?――とわたしは思った。後悔先に立たず。口は禍の わざわい 元とはこのことだろう。
 これまで兄貴の誕生日に人を呼んで祝ったことなんかない。夕食後に家族でケーキを食べるだけだ。それに兄貴の誕生日は先月で、もう終わっている。
「ねぇねぇ、お兄さんの誕生日っていつ?」
「今月? それとも来月?」
 真弓と百合子は、わたしの手を片方ずつつかんで言った。わたしはほとんど考えずに、思いつくまま答えた。
「十二月だよ。十二月十八日」
「えぇ? 三ヶ月も先じゃない!」
 百合子ががっかりしたように口をとがらせた。でも真弓は、それでも構わないと言った。
「じゃあ、約束だよ。でも、十二月十八日って平日?」
「わかんないけど、平日だったら一番近くの日曜日にするから大丈夫」
 口が勝手に適当なことを喋ってしまう。真弓たちは何をプレゼントにしようかと、打ち合わせを始めた。
 怖くなったわたしは、真弓たちから顔をらして前を向いた。すると、先を歩いていたはずの紫色のズボンの転校生は、いつの間にか見えなくなっていた。自分が笑われていると気づいて逃げたのだろうか。
 兄貴のことではしゃぐ真弓たちの横で、わたしの胸は小さな罪悪感でチクリと痛んだ。