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風船たちの神さま

 気がつけば、わたしは赤い風船がいっぱい浮かんでいる所にいた。
 ここはどこだろうと思うこともなく、わたしは自分に向かって飛んで来る風船たちを、じっと眺めていた。
 風船と言っても、よくある端っこにひもを結びつけたような風船ではない。縛ったような所はどこにもない、まん丸の風船だ。風船と言うよりは、大きなゴムまりと言った方がいいかもしれない。
 だけど、わたしにぶつかったときの感触は、やっぱりゴム鞠と言うより風船かな。大きさは両腕で抱えるほどあって、結構大きいけど、すごく柔らかくて、当たっても全然痛くない。あんまり柔らかくて、ぶつかった勢いでぺちゃりと平たくなって、わたしの体に張りつくみたいになる。 
 ここには強い風があり、風船たちは風に吹かれるだけでも、丸い座布団みたいにへしゃげてしまう。その風は何故か一定のリズムで吹いていて、風船たちは風が吹くたびに座布団に変身しながら前に進んでいる。
 そんな風船たちがはるか上空から地面近くまで、ひしめきあって浮かんでいる。まるで野鳥の大群の中に入り込んでしまったみたいだ。
 人はいないし、生き物らしきものもいない。白っぽい薄緑色の地面は、どこまでも真っ平らだ。草木は生えていないし石ころも落ちていない。
 上を見上げると、風船たちの隙間から見える空も、地面と同じような薄緑色だ。
 太陽は見当たらないけど、曇り空のような明るさはある。あの薄緑色に見えるのは、たぶん空いっぱいに広がった雲で、太陽はその向こうに隠れているのだろう。
 音は何も聞こえない。ただ風が吹くたびに、小さなビリビリするような振動が伝わってくる。この振動が体に伝わるたびに、何故かはわからないけど、わたしの胸の中は物悲しさでいっぱいになる。
 だけど風船がわたしにぶつかると、わたしの中にさわやかな力が湧き起こる。風に物悲しくさせられたわたしに、風船が元気を注入してくれているみたいだ。
 いったいここはどこなのか。この風船たちの正体は何なのか。何もわからないけど、元気をくれる風船たちは、わたしの味方にちがいない。こんなに数え切れないほどの風船たちが、わたしの味方だと思うと、それだけで胸がいっぱいになってしまう。
 よく見ると赤い風船たちの間に、小さな黄色い手毬てまりみたいなのが交じってる。赤い風船と比べると数は少ないようだ。
 見た目は丸っこいけど、近くに飛んで来た手毬を観察すると、表面が金平糖み こんぺいとう たいにぼこぼこしている。
 硬いのか柔らかいのかは触ってみないとわからない。すぐ近くに来た手毬に手を伸ばしてみたけれど、もう少しの所で指が届かなかった。
 ふと顔を上げると、かなり遠くの上空に、透明のしぼみかけたビーチボールみたいなのが飛んでいた。周りの風船たちと比べると、何倍もの大きさがあるようだ。
 他にもいるのかなと思って、あちこちを眺めてみたけど、どこを見ても風船ばかりだ。
 もう一度上空に目を戻してみると、さっきのビーチボールもわからなくなった。
 あれだけ大きいから、近くを飛んでいたならすぐにわかりそうだ。でも全然いないようだから、黄色い手毬よりもさらに少ないみたい。
 それにしても、ここはまったく奇妙な所だ。何だか前にも来たことがあるような気がするけど、それがいつのことかは覚えていないし、本当に来たかどうかもわからない。それでも、ここには親近感がある。風船たちもわたしを歓迎してくれているみたいだ。
 わたしはぶつかって来た風船を抱きとめた。なんだかとてもいとおしい。わたしの中に風船から元気が注ぎ込まれるのがわかる。
 次の瞬間、わたしは驚いた。抱いていた風船が青くなってしぼんでいるのだ。
 見ると、わたしにぶつかった風船たちは、みんな青くしぼんで飛んで行く。どういうことだろう?
 私は少し考えて理解した。風船たちはわたしに元気を与えた分、自分はしぼんでしまうのだ。色が青くなったのは、元気がなくなったということなのだろう。
「あなたたち、自分の元気をわたしにくれてたんだね」
 わたしは抱いていた青い風船に話しかけた。話が通じると思ったわけではないけど、感激と申し訳なさがわたしにそうさせた。
 そのとき、わたしには自分の声が奇妙に思えた。口に出してしゃべっているつもりなのに、なんだか頭の中で喋っているだけのような気がする。
 自分の声のことはともかくとして、わたしは風船に、ごめんねと謝った。すると突然、頭の中に子供の声が聞こえた。
 ――イイノ。
 どこから聞こえたのかはわからない。小さな女の子の声だ。小学校の低学年か、ひょっとしたら幼稚園児かもしれない。そんな女の子たちが何人も、一斉いっせいに喋ったように思えたけど、一人で喋ったようにも聞こえた。
 わたしは周りをぐるりと見回してみた。だけど、どこにも女の子の姿はない。風船たちが邪魔で見えにくいから、わたしは地面に腹ばいになって女の子の足を探した。でも、やっぱり女の子はいなかった。
 声はわたしが青い風船に謝ったときに聞こえた。もしかしてと思い、わたしはもう一度腕の中の風船に声をかけてみた。
「今の声、あなたなの?」
 問いかけに対する返事は、すぐに頭の中に返って来た。
 ――ソウダヨ。
 わたしは興奮した。この風船たちは生きている! 人間と同じように心があって、話ができるんだ!
 わたしは気持ちを落ち着かせながら風船にたずねた。
「ねぇ、あなたたち、どうしてわたしに元気をくれるの?」
 ――好キダカラ。
 思いもしなかった言葉に、わたしは泣きそうなくらい感激した。こんな言葉を誰が言ってくれるだろう? わたしは感動を抑えながら言った。
「だけど、わたしに元気をくれたら、あなたたちの元気がなくなるでしょ?」
 ――イイノ。
「何でそこまで、わたしのことを想ってくれるの?」
 ――ダッテ、神サマダモン。
「神さま? え?」

 はっとなって目を開けると、もう朝だった。
 頭の中で、さっきの子供の声が余韻よいんとなって残っている。
 ――ダッテ、神サマダモン。
 それは声のようで本当の声ではない。実際に耳で聞く声と比べると、とても曖昧あいまいな感じがする。だけど、わたしが自分で妄想した声じゃない。本当に話しかけて来た声だった。
「なんで神さま? なんでわたしが?」
 わたしはベッドに横になったまま、一人でつぶやき考えた。
 わたしが風船たちの神さまならば、あの世界を創ったのはわたしということになる。だけど、あの世界を創った覚えなどないし、そもそもわたしにそんな力はない。
 ひょっとしたら、憧れの意味で神さまという言葉を使ったのだろうか。それだったらまだわかるけど、それでもなんで風船がわたしに憧れたりするんだろう? みんなと姿が違うから?
 手毬やビーチボールたちは、わたしのことをどう思ってるんだろう? やっぱり神さま? それとも手毬たちには別の神さまがいるのかしら。

 出し抜けにベルが鳴った。びっくりして飛び起きたわたしは、それが目覚まし時計のベルだとは、すぐには気づかなかった。
 ベルの原因がわかると、わたしは腹立たしさを込めて乱暴にベルを止めた。
「もう起きてるんだから、鳴ることないでしょ? まったく!」
 時計はセットされたとおりにベルを鳴らしただけだ。なのにわたしに怒鳴られて乱暴な扱いを受けるなんて、気の毒としか言いようがない。だけど、このときのわたしにはそんなことを考える余裕などなかった。
 わたしは黙り込んだ目覚まし時計をひとにらみすると、さっきの夢のことをもう一度考えようとした。しかし、どんな夢を見たのかが思い出せない。時計のベルに気を取られたために、夢の記憶が消えてしまったらしい。
 必死になって思い出そうとすると、誰かに何かを言われたような、そんな気がした。それは嫌な言葉じゃなく、むしろうれしくなるものだったように思える。だけど、それ以上のことは何も思い出せなかった。
 せっかくの夢を台無しにされてしまったことで、わたしは目覚まし時計に八つ当たりの枕を投げつけた。可哀想に、目覚まし時計はひっくり返ってしまった。
 だけど、どんなに時計に文句を言ったところで、消えた夢は戻ってこない。わたしは夢のことはあきらめて起きることにした。
 体は起こしたものの気分はすぐれない。できれば今日は学校へは行きたくなかった。だって、今日は運動会だから。
 小学校の頃からわたしは運動が苦手だ。特に駆けっこは大嫌いだ。それなのにクラス対抗男女混合リレーの選手に選ばれてしまった。女子の一人は足の速い子に決まったけど、あとが決まらずくじ引きになった。そのくじで、わたしははずれを引いてしまったのだ。
 他の選手はみんな足が速いのに、わたしのせいで負けてしまったら、わたしはみんなに顔向けができなくなってしまう。
 だから、運動会が雨で中止になるよう祈ってたのに、カーテンを通して明るい光が部屋に差し込んでいる。今日は間違いなく晴れだろう。
 わたしはカーテンを開けた。やはり思ったとおりにいい天気だ。いつもであれば気持ちがいいはずの青空が、今日はとても無慈悲に見える。また、そこに白い雲が運動会なんか他人事だと言わんばかりに、ぷかぷか気持ちよさげに浮かんでいる。
 雲に向かって、イーッとしたわたしは、恨めしい気持ちで勢いよくカーテンを閉めた。