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知らされた事実

 家の中に入ると、政吉まさきちさんが早速警察へ電話をかけていた。その電話はずんぐりしていて真っ黒で、数字が書かれたボタンはない。代わりに丸い穴がいくつも開いた円盤が付いていて、それぞれの穴の下に数字が書かれてある。
 政吉さんはこの穴に右手の指を入れて、ジーコジーコと円盤を回転させていた。それから左手に握っていた黒くて太い受話器を顔に押し当てた。
「もしもし、警察? うちの従弟の娘がな、行方ゆくえ知れずになったんよ。すぐに探してくれんかな」
 政吉さんは大声で警察にしゃべり始めた。その様子を久美くみのお母さんたちが不安げに眺めている。
 ところが兄貴は政吉さんの会話より、黒い電話に関心を向けているようだ。じっと電話を物珍しげに見つめている。
 うちの家にも固定電話はあるけれど、もっと薄くてボタンで番号を打ち込むタイプだ。だから、わたしにしたってこの家の電話は珍しいけど、今はそれどころじゃない。それなのに兄貴ったら、今の状況が理解できているのだろうかと腹が立つ。
 一方で政吉さんの娘さんたちは、わたしたちに興味が湧いたらしい。警察への連絡は父親に任せたという感じで、小声でわたしに話しかけて来た。それで久美との関係や、どうしてここへ来たのかということを聞き出すと、政吉さん同様に驚いた。また横で話を聞いていた尚子さんも目を丸くした。
「何べんもおんなしこと言わしなや。ほやけんな、東京かとうきょう らこっちのばあさんの葬儀に来よった従弟の娘が、急に行方不明になったんよ。みんなで手分けして探したけんど、どこっちゃ見つからんけん、警察でも捜してくれて言いよんじゃろがな!」
 政吉さんが壁を見ながら受話器に怒鳴った。ぴりぴりした空気が、わたしたちを黙らせた。
 そのあと政吉さんは、受話器の向こうの警察と何度かやり取りをしたあと、乱暴に受話器を置いた。
「すぐ来てくれ言うとんのに、ああだこうだ言うて、なかなか腰上げようとせん。あがぁなことやけん、世の中から事件がなくならんのぜ!」
 政吉さんはわたしたちのそばに腹立たしげに腰を下ろした。でも、すぐに顔の険しさを消すと、心配せんでええけん――と久美のお母さんを慰めた。
「とにかく今は久美ちゃんの無事を信じよや。こがぁして東京の友だちもおいでてくれたんやけんな。絶対久美ちゃんは見つかるて」
 久美のお母さんはしおれるようにうなだれて、自分がもっと気をつけておくべきだったとやんだ。
「うちの人が死んだんも、おじいちゃんが亡くなったんも、自分のせいやてあの子は思いよった。春花ちゃんが病気になったんも自分のせいやて言いよったあの子が、どがぁな気持ちでここへ来たんか、ぃついてやれんかったあたしは母親失格や」
「ほんなことない。あんたは女手一つでようやっとらい。悪いんは里子さとこぜ。あの阿呆あほたれは自分が離婚して出戻りになったのに、自分とおんなしバツイチの初子はつこさんが、忠志ただしと一緒になって幸せそうにしよるんが面白おもろなかったんよ」
 政吉さんが久美のお母さんを慰めると、尚子さんも言った。
さとちゃん、昔っから忠志くんのこと可愛がりよったけんねぇ。その忠志くんを初子さんに取られたいう気持ちもあったんじゃろな。ほうは言うても、あの人の初子さんや久美ちゃんに対する態度は異常なで。なんであそこまでひどいこと言うんじゃろか」
 知らない名前が出て来たので、わたしは和美かずみさんに誰のことかと、そっと尋ねた。
 和美さんの説明によれば、里子というのがあの怖い久美の伯母さんで、忠志というのが久美の亡くなったお父さん、そして、初子というのが久美のお母さんのことだそうだ。
 ようやく人間関係がわかったけれど、どうして久美が伯母さんに憎まれるのかが、わたしにはわからなかった。
 それについて尋ねてみると、尚子さんが話してくれた。
「あたしもな、なんでそこまであの子を嫌うんかて聞いてみたことがあるんよ。ほしたらな、子供の頃に自分をいじめよった上級生に似とるけんじゃて言いよった」
「ほうなんですか?」
 久美のお母さんが当惑した顔を尚子さんに向けた。今の話は初耳だったらしい。
 うなずく尚子さんに、わたしは言った。
「わたし、久美はおばさんに似てるって思ってました。それは、おばさんもその人に似てるってことでしょうか?」
 ほうじゃねぇと、尚子さんは久美のお母さんを見つめた。
「確かに初子さんも似とるとこはあるけんど、どっちか言うたら久美ちゃんの方が似とるかな。言うても、ほんまはどっちも全然似とらんのよ。誰が見たかて、里ちゃんをいじめた人と、久美ちゃんや初子さんは別人やてわかるけん。ほんでも、どっか似とるとこがあったら、全部似とるみたいに思てしまうんじゃろかねぇ」
 誰のことかと政吉さんが聞くと、尚子さんはその人物がどこの誰なのかを説明した。もちろんわたしたちには誰のことかはわからない。でも政吉さんはわかったようで、あいつかと言いながら大きくうなずいた。
「そのいじめた人は、今もここにいるんですか?」
 兄貴が話に交ざると、政吉さんが言った。
「どこぞへ嫁入りしたみたいでな、あとのことはわからんのよ」
「だとしたら、それもあの伯母さんが腹を立てる理由かもしれませんよね」
 納得したようにうなずく兄貴に、わたしはどういうことかと尋ねた。
「つまり、自分をいじめた相手は離婚されていないのに、いじめられた自分は離婚されたっていうのが、面白くなかったんじゃないかってこと。自分をいじめたやつは幸せに暮らしてるのに、いじめられた方の自分がなんで不幸せなのかって考えるんじゃないかな」
 なるほどと政吉さんがうなずき、尚子さんも感心したような目を兄貴に向けた。
「翔太郎く しょうたろう んって頭がえぇんじゃねぇ」
 八重やえさんが言うと、ほんまほんまと和美さんも言った。
「ほれに、えらい妹想いやしねぇ。しょうくん、女の子にもてるじゃろ?」
 和美さんがからかうように言うと、それほどでもと兄貴は照れ笑いをした。
 わたしはせき払いをすると、久美のお母さんに久美がどうして東京へ転校したのか尋ねてみた。
 お母さんはしょんぼりしながら、いろいろあったんよと言った。
「あの子が幼稚園の頃にな、あの子の実の父親は、あたしらを捨てておらんなったんよ。ほれであの子は泣いてな、ちょっとしたことに腹を立てるようになってしもた。やけん、小学校に上がっても友だちはできんし、片親じゃいうことをからかわれたら、相手が男の子でも取っ組み合いの喧嘩けんかをするほどじゃった」
 今の久美からは想像ができないほど、子供の頃の久美は気性が激しかったようだ。だけど、その気性も新しい父親ができると、次第に落ち着いて行ったそうだ。
「新しい夫はな、まっことあの子に優しかったし、あの子も新しい父親のことが大好きじゃった。あの人のお陰でな、久美はようやっと本来の穏やかで優しい子に戻れたんよ」
 久美のお母さんは懐かしそうな笑みを浮かべて言った。わたしにもその頃の久美の様子が目に浮かぶようだ。
 ところがその大好きな父親が、沖に流された久美を助けようとして死んだのだ。その光景を見ていたであろう久美が、どれだけ悲しくつらいことだったのかは想像にかたくない。
 当時、久美のお母さんはおなかに新たな命を宿らせていたと言う。久美は自分の弟か妹ができるのが、とても楽しみだったらしい。
 だけどこの事件がきっかけとなって、その子を流産してしまったと久美のお母さんは言った。それは久美が自分にとって大切な存在を、同時に二つ失ったということだった。そして、二つの命がなくなったのは全部自分のせいだと、久美はずっと自分を責め続けていたそうだ。
 それなのに、そんな久美に追い打ちをかけるように、あの伯母さんが久美に呪いの言葉を吐いた。久美は学校にも行けなくなり、ずっと家に引き籠もっていたと言う。
「あの子は自然が好きな子でな、花言葉もようけ覚えよった。そんなあの子の慰め言うたら、庭に咲く花とか、うとった子犬とか、時々庭に遊びに来る小鳥やタヌキじゃった」
 話を聞いていたわたしは、どきりとした。花、子犬、小鳥にタヌキ。それらはわたしが久美の絵に描き加えた生き物たちだ。
 久美のお母さんは久美を学校へ行かせるため、それまで暮らしていた山の近くから松山まつやまへ引っ越しした。松山なら自分たちの状況を知る者がいないため、久美も学校へ行きやすいと考えたそうだ。
 しかし、松山では庭がなかったので犬を飼うことができず、可愛がっていた犬は近所の知り合いにもらってもらうことになった。それは久美には悲しいことだったので、久美のお母さんは松山へ移ったあと、久美に部屋で飼うウサギを買ってやったそうだ。
 転校してもすぐに友だちができるわけでもなく、久美は学校が終わると、ウサギの世話ばかりをしていたらしい。
 わたしが久美に描いた絵には、そんな意味があったのかと、わたしは初めて知った。あの絵は久美にとって慰めであり、久美の本当の姿だったということだ。それに、失ってしまった大切な者たちへの想いも、あの絵に重なっていたに違いない。
 あのとき絵を抱きしめて泣いた久美が思い出され、わたしの目から涙がこぼれた。兄貴は涙の理由わけを知らないけれど、しんみりと話を聞いている。

 中学校になると、別々の小学校出身の者たちが一緒になるので、久美にも馴染なじみやすかったらしい。ようやく友だちができたようなので、久美のお母さんもほっとしたそうだ。
 しかし、その中学校で事件が起きた。それが久美の伯母さんが言ういじめ事件らしいけど、事実は久美が事件を引き起こしたわけではなかった。
 久美のお母さんの話によれば、事の発端は東京からの女子転校生だと言う。
 その転校生は喋り方が松山の言葉とは違っていたので、気取っていると女子生徒たちにからかわれたらしい。それがやがては執拗しつようないじめになったとき、久美はいじめグループの生徒たちに、いじめをやめるように注意したと久美のお母さんは言った。
 すると、そのいじめグループのリーダーが、どこから情報を得たのか、片親のくせにと久美を馬鹿にしたらしい。さらには何も知らない久美の父親のことまであざ笑ったので、大喧嘩になったそうだ。
 怒れば男子相手でも負けない久美だけど、なにしろ相手は複数だ。争いに気づいた男子生徒たちが両者を引き離すまで、久美は必死に相手を引っぱたいたり蹴飛ばしたりしたそうだけど、本人はそのときのことをよく覚えていないそうだった。それでもお互いが怪我をするほどの喧嘩だったので、久美はお母さんと一緒に校長室へ呼び出されたと言う。
 校長は相手のことはとがめないまま、久美の暴力性は異常だと言ったそうだ。それで、病院で精神異常がないかを調べることと、怪我をさせた各生徒の家に行って謝罪することを求められたと、久美のお母さんは腹立たしげに言った。
 普段はおとなしい久美が、どうしてそこまでしたのかを考えて欲しいとお母さんは訴えたそうだけど、校長はまったく聞く耳を持たなかったらしい。
 この一方的なやり方に、久美のお母さんは納得が行かなかったし、久美も謝罪することを拒否した。その結果、久美は一週間の停学処分になった。
 このいじめグループのリーダーというのがPTA会長の娘だったそうで、そのことと久美の処分は絶対に関係があると久美のお母さんは言った。
 結局、停学処分が解けても、久美は学校へ戻ろうとしなかった。また、久美のお母さんもあんな学校へは行かせられないと思ったそうだ。
 そんなとき、の悪いことに久美が飼っていたウサギが死んだと言う。少し調子がよくなかったらしいけど、まさか死ぬとは思っていなかったので、久美には二重のショックとなったようだ。
 久美はぼろぼろだった。それはそうだろうと思う。やること全部が裏目に出て、愛する者との間を引き裂かれてばかりだ。大好きだった父親を馬鹿にされて、久美が怒りを爆発させたからって、そんなのは当たり前だ。
 四国しこくから東京へ移って来たのは、不幸続きの娘を心機一転させるためだったと、久美のお母さんは言った。移動先に東京を選んだのは、東京だったら田舎のような権威主義はないだろうし、自分が働く先を見つけやすいと考えたからだそうだ。
 だけどその新たな転校先で、久美は再びいじめに遭って居場所を失った。そのことを久美のお母さんが知っているのか確かめたかったけど、とてもそんなことは聞けなかった。
 わたしは久美が父親のことを話してくれなかった理由がわかったような気がした。これまで久美は片親ということで嫌な想いをさせられて来た。だから、そんな話はしづらかったのに違いない。それに海で亡くなった父親の話など、誰にも喋りたくなかっただろう。わたしだって同じ立場だったら、絶対に誰にも本当のことは話さない。
「学校なんか無理に行かなくたっていいんだよ」
 兄貴がぽつりと言った。
「人間、学校なんか行かなくたって生きていけるし、学校よりもっと大事なことが、世の中にはいっぱいあるんだ。オレは今回の旅で、それを学ばせてもらった。だから、オレ、久美さんにもそのことを教えてあげようと思ってんだ」
 わたしは心底兄貴をかっこいいと思った。もう、ハンバーグを横取りされたって怒ったりしない。
 兄貴の言葉には、そこにいるみんなが感動したようだった。特に久美のお母さんは目頭を押さえながら兄貴の手を取って、よろしくお願いしますと頭を下げた。
 兄貴はどぎまぎした様子だったけど、わかりましたと言った。

 表で車の音がした。と思ったら、間もなくして呼び鈴が鳴った。政吉さんが玄関に出ると、二人の警官が立っていた。政吉さんの電話に応じて来てくれたようだ。
 尚子さんと久美のお母さんは玄関へ行ったけど、残ったわたしたちは廊下に隠れて、三人と警官たちとの話を盗み聞きした。
 政吉さんたちは代わる代わる必死に事情を訴えていた。だけど、警官たちの方には少しも緊迫感がない。淡々と聞くべきことを聞きながら、遺書がないのであれば、そんなに心配しなくていいと、無理に三人をなだめようとしていた。
 わたしは飛び出して、警官たちに久美の手紙を見せた。そして、この手紙の文面は別れを告げているように見えると訴えた。
 手紙を読んだ警官たちは、わかりましたと言うと、パトカーを巡回させて辺りを調べてみると約束した。それから、その手紙を持って行こうとしたので、わたしは慌てて手紙を取り戻した。
 警官たちが帰ると、政吉さんは納得できない様子で、こがぁなったら山狩りぜ!――と言った。
「久美ちゃんはな、たぶん山ん中へ入って行きよったんよ。ほんなん、パトカーで道路走ったかて見つかるわけあるかい。わし、町内会長んとこ行って、みんなで山狩りするよう頼んでうわい」
 久美が一人で山に入る。それがどういうことかは誰にでもわかる。まさかと思いながらも、わたしは政吉さんの言葉を否定できずにいた。みんなも緊張が走ったように顔を強張らせている。久美のお母さんが泣き崩れると、政吉さんは困惑を見せたけど、そのまま言葉もかけずに出て行った。
 尚子さんは久美のお母さんのそばへ行くと、あの人が言ったのは悪い意味ではないと慰めた。それから時計を見て、何か食べておこうと言った。
「こがぁなときやけん、食べる物はしっかり食べとかんとな。今からおにぎりこさえるけん、あんたらも手伝いや」
 尚子さんが和美さんたちに声をかけて台所へ向かうと、二人ともそのあとに続いた。
 本当は尚子さんだって動揺しているに違いない。だけど、わざと気丈に振る舞ってみんなを鼓舞しているのだろう。
 久美のお母さんは涙を拭くと、わたしと兄貴を自分たちが泊めてもらった部屋へ案内した。それから自分もおにぎり作りを手伝いに行った。
 悲しくても泣いてばかりはいられないし、じっとしているのもつらいに違いない。久美のお母さんの後ろ姿を見送ったわたしは、胸が締めつけられた。

 部屋の隅に置かれた久美たちの荷物のそばで、わたしと兄貴は黙って座っていた。
 間もなくすると、久美のお母さんがお盆におにぎりとお茶を載せて運んで来てくれた。尚子さんたちは急いでおにぎりを食べたあと、もう一度久美を探しに出るそうで、わたしたちにはここで待機するようにとのことだった。
 わたしたち三人は黙っておにぎりを食べた。本当はおにぎりなんて食べる気分じゃなかったけど、何もしないでいると気が滅入ってしまう。
 わたしは少しでも久美のお母さんの気持ちを和ませようと、久美がタコさんウィンナーを食べたがっていた話をした。お母さんは少し微笑むと、そんなことを言われてたような気がすると言った。でもすぐに涙ぐむと、おにぎりを口に頬張ほおばったまま泣き出した。
 わたしと兄貴はお母さんを慰め、きっと久美は見つかるからと励ました。だけど、本当はわたしだって不安でいっぱいだった。

 おにぎりを食べ終わっても、わたしたちにはすることがなかった。見知らぬ土地で何をすればいいのかわからないし、未成年のわたしたちにできることなど何もなかった。
 かたわらに置かれた久美たちの荷物の中には、畳まれた久美のカーディガンもあった。昼間は暖かいので着なかったのか、そんなことを考える余裕もなかったのかはわからない。でもこのカーディガンには、久美の気配の余韻よいんが残っていた。
「久美、戻って来てよ……」
 わたしは久美のカーディガンを抱きしめてつぶやいた。
 そのとき、わたしの目に留まった物があった。それは一本の長い髪の毛で、カーディガンの肩の辺りにからまるようにあった。
 きっと久美の髪の毛に違いない。その髪の毛を指でつまみ取ると、わたしは無意識にその髪の毛に話しかけた。
「ねぇ、あなたの神さま、どこにいるの? 知ってるなら教えて」
「お前、何言ってんだ? 大丈夫か?」
 兄貴が怪訝けげんそうに言った。久美のお母さんも心配そうにわたしを見ている。だけど、わたしの目に二人は映っていない。わたしが見つめているのは、久美の髪の毛だけだった。
「わたし、あなたの神さまに会いたいの。お願いだから、神さまに会わせて」
 わたしは必死だった。わらにもすがると言うけれど、髪の毛にもすがる想いだ。
 同じ言葉を繰り返しつぶやいていると、急にひどいめまいがして、身体を起こしていられなくなった。倒れるように畳の上に横になっても、世界はぐるぐる回り続けている。
「おい、春花。どうした?」
「春花ちゃん、しっかりして!」
 兄貴と久美のお母さんの声が聞こえた。二人がわたしの身体を揺らすのもわかった。だけど、わたしには二人がどんどん遠くなって行くように思えた。やっぱり病み上がりで旅を強行したのが悪かったのか。こんなときに、こんなことになるなんて最悪だ。
 わたしは気持ちが悪くなって目を閉じた。それでも身体が回り続けているようで、わたしはひたすら具合の悪さに耐えるしかなかった。
 突然、わたしは悲しみの中に放り込まれた。久美のことを悲しんではいたけれど、その悲しみが暴走したみたいに、わたしを涙の海に沈めようとしていた。
 あんまりつらくて、わたしは目を開けた。すると、世界はまだ回っていた。いや、そうじゃない。回っているのはわたしの方?
 部屋の畳に寝ていたはずなのに、わたしは宙に浮いている。もしかして、わたしはまた死にかけているのだろうか。
 不安になって周りを確かめようとしたけど、ぐるぐる回っているのでよくわからない。それでも、さっきまでいた部屋ではなさそうだし、体のわたし・・・はどこにも倒れていないみたい。それに兄貴や久美のお母さんの姿もない。代わりに赤い物がいっぱい見える。わたしはどうなってしまったのだろう?
 手足を伸ばしてバランスを取ると、ようやく回転は止まった。だけど、わたしは悲しみの風に流されている。
 わたしは涙をこらえながら辺りを見回し、え?――と思った。
 無数の赤い風船たちが、わたしと一緒に風に押し流されている。わたしはまたもや身体の世界に入り込んだようだ。