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三匹の化け物

 久美くみの右胸と左胸、そして額には小さな頭が生えていた。
 右胸の頭はくちばしがあって、カラス天狗てんぐみたいな顔だ。
 このカラス天狗は、相手を小馬鹿にしたような顔でにやにやしている。そのくちばしから、しきりに舌が顔をのぞかせているが、その舌は二枚あるようだ。
 左胸にある頭は、青白い死人しびとのような女だ。焦点が定まらないような女の目は白くにごっていて、どこを見ているのかわからない。髪はぼさぼさ、皮膚はぼろぼろで、顔の肉は腐っているようだ。
 額に生えた頭は、優しげに微笑んだ女性だ。髪もきれいに整えて、一見すると、天女か仏さまのような顔立ちをしている。だけどよく見たら、その目は冷たく策略に満ちているようだ。
 一方、本物の久美はぼんやりしていて、わたしを見てはいるけれど、わたしが誰なのかがわからないみたいだ。

「おや、誰だい、お前さんは?」
 額の天女が警戒しているような目を向けた。それでも口元は微笑んだままだ。
「久美、わたしだよ。春花はるかだよ。しっかりして!」
 わたしが声をかけても、久美はぼーっとしたままだ。
「春花と言うのかえ。つまんない名前だね」
 クックッと天女が笑うと、カラス天狗もケケケと笑って言った。
「君の名前さ、つまんないけど素敵だよ。それに君、不細工だけど可愛いよね」
 死人の女はホホホと笑い、臭い息を吐きながら言った。
「うちは見たらわかるんよ。あんた、人に厄介ぎりかけよる疫病神じゃろ?」
 三つの頭が喋っても、久美は人形のように何も言葉を発しない。久美はこの化け物たちに取りかれ、自分がわからなくなっているに違いなかった。
 わたしは気味が悪いのも忘れ、死人の女に飛びかかった。女の髪をつかんで久美から引き離そうとしたけれど、久美の服を破って生えていた女の首は、しっかりと久美の胸につながっていた。女の頭を引っ張ると、久美が手前によろけて倒れそうになった。
 女の首を絞めると、女は笑いながら、人殺し!――と叫んだ。
 隣のカラス天狗がくちばしでわたしの手をつついた。痛くて女から手を離すと、カラス天狗はカカカと笑った。
「無駄なことはおやめ。あたしたちはこの子と一心同体なんだよ」
 額の天女が微笑みながら言った。わたしは天女をにらんで言い返した。
「勝手なことを言うな! 久美を食い物にしている寄生虫のくせに!」
「寄生虫? 失礼なことをお言いでないよ。あたしたちだけが、この子と想いを共にできるんだ。どっから来たのか知らないけどさ。野良猫のお前さんとは違うんだよ!」
「そうそう。君は知らないだろうが、久美はね、本当は君のことが嫌いなんだってさ」
 カラス天狗はへらへらしながら、わたしを気の毒がった。
「せっかく四人で楽しいにしよったんやけん、邪魔せんでくれん? 疫病神さん」
 死人の女は文句を言うと、久美を見上げた。女は左目でわたしを見ながら、長い舌を出して久美のほおをぺろりとめた。背筋がぞっとしたけど、久美は無表情のままだ。
 この化け物たちを何とかしないと、久美を助けることはできない。だけど、この連中は何なんだろう? いつの間に久美の心に食い込んだんだろう?
 頭の中に、ふと夢で見た光景が浮かんだ。久美の両胸と額に突き刺さった言霊ことだまの矢。そうか、こいつらは言霊だ。二枚舌と疫病神と偽善者。それがこの化け物たちの正体だ!
「あんたたちの正体、見破ったからね!」
 わたしが叫んでも、三匹とも少しも意に介さない様子でケラケラ笑っている。天女は笑いをこらえると、聞いてあげるから見破った正体を言ってごらんな――と言った。
「あんたたちはみんな、誰かが久美に言い放った言霊だ!」
 天女はしらけたような顔を見せた。
「何を言うのかと思ったら……。もっと面白いことを言うと思ったのにさ」
 カラス天狗と死人の女もうなずきながら言った。
「残念。二十点だな。でも、次は期待してるよ」
「ほんでも、どうせ、またがっかりさせられるぎりじゃろ。人に迷惑かけることしか能がないんやけん」
 わたしはかまわず死人の女を指差した。
「まず、あんたよ! 人のこと疫病神呼ばわりするけど、あんたこそが疫病神よ!」
「うちが疫病神? 自分のことを棚に上げて、よう言うわいねぇ。あんた、自分のことぎり言うて、相手のこと傷つけとるんやないんか? あんたがおるぎりで迷惑しよる人がおるやなんて、考えたこともなかろ?」
 死人の女はわたしをにらみながら言った。だけど、わたしは負けない。何故なら、わたしは死人の女が誰が飛ばした言霊なのかを知っているから。
「そうやって相手に罪の意識を持たせることで、自分が偉くなったみたいに思ってるんでしょ? 自分では何もできないから、他の人を陥れ おとしい て自分の立場を高く見せようとしてるだけじゃないの! あんたみたいなのをね、本当の疫病神って言うのよ!」
「この小娘が偉そうに。あんたこそ、自分が上じゃて思いたいんじゃろがね」
「あんた、馬鹿じゃないの? 人間に上も下もないでしょ? その顔と同じように、あんたの心は腐ってるのよ。その目だって、本当のことなんか何も見えてないんでしょ?」
「失礼なこと言いなや! うちの心は腐っとらんし、ちゃんとほんまのことが見えとるわいね」
「じゃあ、わたしが誰に迷惑をかけたのか言ってごらんなさいよ。あんた、わたしがいるだけで人に迷惑かけてるって言ったでしょ? それは誰なの? 言いなさいよ!」
 死人の女は口をもごもごさせて言った。
「う……、お前の親じゃ」
「残念でした! わたしの両親はどっちもわたしのことを、とても大切に想ってくれてます」
「ほれじゃったら、お前の友だちじゃ」
「ほんとに、あんたって頭が悪いのね。でも腐ってるんだからしょうがないか。あのね、わたしのことを迷惑に思うような人は、わたしの友だちじゃないの。わかる? 本当の友だちっていうのは、相手のことを迷惑に思ったりしないものよ。そんなこともわからないってことは、あんたには本当の友だちがいないってことよね? そうでしょ?」
 死人の女と言い合いながら、わたしは他の二つの言霊が黙っていることに気がついた。
 三匹の化け物たちは仲間なのかと思ってたけど、どうやらそうでもないらしい。死人の女がわたしに言い負かされているのを、他の二匹は面白そうに聞くばかりで、加勢するつもりはないようだ。
 言い返せずに口ごもる死人の女に、わたしは畳みかけるように言った。
「何でも人のせいにして、自分はいつだって正しいって思いたいのがあんたよ。そのために相手を傷つけて、自信をなくさせようとする厄介な意地悪女! それがあんたの正体であり、あんたの主人の正体よ!」
 死人の女は憎々しげに歯をくと、食ってかかるように言い返して来た。
「このくそガキが! あんたみたいな子供にゃわかるまい。世の中いうんは、つらいことばっかしなんよ。ほんなん、誰ぞ不幸なやつがおらんとやってられんがね! 悪いんはうちやない。世の中や! 文句言うなら、世の中に言いや!」
 わめく疫病神に、わたしの口が勝手に動く。
「そう思うのは、あんたが物事を一面からしか見てないからでしょ? 愚痴ばっかり言ってないで、ちっちゃなことでもいいから喜びを探してごらん。つらいと思うこともね、見方を変えれば喜びへの道しるべなのよ!」
「世の中知らんもんが、きれい事ばっかし言うんやないわ! ほんまのつらさなんぞ知らんくせに!」
「つらさに本当もうそもないのよ。人によって、つらさは様々なの。自分だけがつらさを知ってるって思うのは間違ってるよ。つらいと思うのなら、そこから抜け出すための工夫をするの。自分は不幸だって決めつけないで、幸せになることを自分に許してあげるのよ」
「何を偉そうに!」
「いいから聞きなさい。つらさっていうのはね、優しさに変えられるんだよ。自分がつらい分、人に優しくして励ましたり祝福してあげてごらんよ。そうすれば、自分が幸せだってわかるから」
 わたしの話を聞きたくないのだろう。死人の女は首を大きく振りながら叫んだ。
「うるさいうるさい! うちは幸せじゃ!」
「幸せな人はね、他の人のことを悪く言わないものだよ。誰かのことを疫病神だなんて言ってるうちは、幸せとは言えないよ」
「黙れ黙れ、この疫病神が!」
「ほら、また言った。それ、ほんとは自分のことを言ってるんでしょ? あんたは自分のことが嫌いなのよ。その気持ちを他人にぶつけて疫病神って罵ってるの。違う?」
「違う! うちは疫病神なんぞやない!」
「じゃあ、自分のことが好き?」
 死人の女は言葉に詰まった。
「言ってごらん。わたしは自分が大好きだって」
「うちは……、うちは……」
 死人の女は白い目に涙を浮かべた。それからくやしそうに歯をくと消えてしまった。
 わたしはちょっと驚いた。死人の女を言い負かせたとは思ったけど、それで消えるとまでは思っていなかった。これはいけると、わたしの中で自信が膨らんだ。

 次の相手はカラス天狗だ。わたしが目を向けると、カラス天狗はぎょっとした様子で、何だよ――と言った。
「この嘘つきカラス。あんたの主人は大嘘つきの二枚舌ね。人をだまして喜ぶ嫌なやつよ。それも、自分のことはわからないようにしながら、陰でこそこそ人の悪口を流す小心者の卑怯者よ ひきょうもの !」
 わたしの指摘にカラス天狗はむっとなった。
い加減なことを言うな! 嘘つきは君だろ? 僕は嘘なんかついたことないぞ!」
「あんた、人の気を引きたいだけでしょ? 本当は構って欲しいけど、馬鹿にされるのが怖いんだよね?」
 カラス天狗は、またにやにや顔になった。
「君が言ってることは、僕には関係ないからよくわからないけどさ、一般論として聞こうか。もし堂々と喋って馬鹿にされたり無視されたら、そんときはどうすんだい?」
「本当に言うべきことがあるのなら、何があっても言うべきよ。でもね、喋る相手や使う言葉は選ばないとね。人のことを馬鹿にするやつなんか、相手にしなけりゃいいのよ」
 カラス天狗の眉間にしわが寄った。
「簡単に言うな! 本当に気兼ねなしに喋れるやつなんかいるもんか!」
「あれ? 一般論を喋ってるんじゃなかったの? 何、興奮してるわけ?」
 はっとなったように、カラス天狗はにやにや顔に戻ったけど、くちばしの端が引きつっているみたいだ。
「わたし、あんたの気持ち、わかってるよ。あんた、本当は友だちが欲しいだけなんでしょ? 友だちって言っても、ただの知り合いじゃなくって、本当にあんたのことをわかってくれる人だよ」
「ぼ、僕は友だちなんかいらない。友だちなんか面倒臭いだけじゃないか」
「だから、そんなのは本当の友だちじゃないんだってば。あんたがいちいち気をつかわなくたって、あんたのことをわかってくれる友だちだよ」
「そんなやつ、いるわけないだろ?」
 明らかにカラス天狗は自分のことを喋っている。わたしの敵意は同情に変わった。
「知らないようだから教えてあげる。わたしと久美は元々一つだったのよ。だから離ればなれに育っても、ちゃんと心はつながってるの。何の気遣いもいらないし、いつだってお互いのことを想い合ってるの」
「それこそ出任せだろ? 僕を騙そうったって、そうは行かないからな」
「わたしの目を見てごらん。わたしが嘘をついてるかどうかわかるから」
 カラス天狗はちょっとだけわたしの目を見たあと、慌てたようにそっぽを向いた。
「ぼ、ぼくにはそんなことわからないよ」
「いいから見なさい!」
 わたしが声を荒げると、カラス天狗はびっくりしたようにこっちを向いた。
 わたしと目を合わせたカラス天狗は、ヘビににらまれたカエルみたいに、わたしから目をらせなくなったようだ。
 わたしは笑顔を見せると、穏やかに話しかけた。
「いい? 嘘は言わないから、よく聞いてね。あんたにだってね、心がつながった人が必ずいるんだよ。だからね、人を騙してさ晴らしなんかしてないで、その人との出会いを探しなさい。そうすれば必ずその人と出会えるから」
 笑みが消えたカラス天狗は、目を伏せがちに言った。
「僕にそんな相手なんかいない。誰も僕のことなんかわかってくれないよ」
「そんなことない。あきらめちゃだめよ。わたしに久美がいたんだから、あんたにだって絶対誰かがいるはずよ。向こうもね、あんたが現れるのを泣きながら待ってるんだよ」
 カラス天狗は顔を上げてわたしを見た。
「僕を待ってる? 泣きながら?」
「そうだよ。あんたと同じように、自分には誰もいないって思って泣いてるの。だから、早くその人を見つけてあげないと可哀想でしょ?」
「だけど、どうすれば見つけられるんだよ?」
「自分なんてって思うのをやめて、自分を認めてあげるの。自分に素直になって、自分が本当に楽しいって思うことに夢中になるのよ。でもね、人を騙して楽しむのは、本当の楽しさじゃないよ。誰かを騙すときって、裏に悔しさとか腹立ちとか悲しみが隠れてるじゃない。そんなのじゃなくて、喜びだけの楽しみだよ」
 カラス天狗はしょんぼり下を向いた。
「そんなの、誰もわかってくれないよ」
「誰にでもわかってもらう必要はないでしょ? 自分とつながっている人だけが、わかってくれればいいんだから。だけど、向こうだってあんたが何もしてなかったら、あんたのことがわからないじゃない。だからね、あんたがほんとの姿を見せていれば、あぁ、ここにいたんだって、あんたのことを見つけてくれるよ」
 カラス天狗はくちばしを閉じ、何かを思案するような顔になった。そして、そのまま消えた。
 やった。カラス天狗も消し去ることができた。
 ほっとしながらも、わたしは外のことが気になった。夕日はどうなったのだろう。かなり時間が過ぎたような気がするけれど、久美が変わらずここにいるということは、久美はまだ生きているということだ。だとすれば、外とここでは時間の流れが違うのだろうか。
 何にしても久美を助けるためには、最後の言霊である天女を倒さなければ。

「残るは、あんた一人ね。偽善者の天女さん」
 わたしは久美くみの額の天女をにらんだ。天女は口元は笑っているけど、目は怒っている。
「なかなかやるじゃないか。それで、あたしをどうしよってんだい?」
「決まってるでしょ? さっきの二人みたいに、あんたにも消えてもらうから」
「ずいぶんな言い草だね。正義の味方にでもなったつもりかえ?」
「そっちこそ、何を威張ってんのよ。久美を殺そうとしてるくせに!」
「おやおや。あたしゃすっかり悪者扱いだね。言っとくけどね、久美が自分をどうするかは、久美が自分で決めてるんだ。あたしがいようがいまいが関係ないことさ」
 とぼける天女を指差して、わたしは言った。
「言ってあげる。あんたの主人は人前では善人の顔を見せるけど、本当は誰が傷つこうがどうでもいいの。善人のふりをするのは我が身を守るためで、自分が傷つかないことだけ考えてるのよ。本当の自分が見せられないからいい子ぶってるけど、そんな自分が大嫌いで憎みさえする孤独で寂しい人。それが偽善者であるあんたの主人の正体よ!」
 しゃべりながら少し前の自分を思い出したわたしは、情けない気持ちになっていた。死人の女にしてもカラス天狗にしてもそうだったけど、天女に対する言葉はまるで自分に投げかけているみたいだ。
 だけど、今のわたしは昔のわたしじゃない。だからこそ言霊たちの考え方が理解できるし、こうしていさめることができるのだ。
 天女は黙ったままわたしを見つめている。何も言わないところが不気味だ。わたしの言葉は天女に効いたのだろうか。ちょっと心配になったわたしは、さらに続けて言った。
「あんたみたいな偽善者はね、正体が知れたらおしまいだよ。そうなったら誰もあんたのことなんか相手にしてくれないんだから! まぁ、そもそも誰のことも信じてないんだから、他の人に相手にしてもらおうなんて思わないか」
 無表情だった天女が、目を細めて笑った。
「言ってくれるじゃないか。小娘なのに大したもんだよ。恐れ入ったね。そうだよ、お前さんが言うとおり、あたしゃ孤独な偽善者さ」
「自分の正体を認めたのね?」
「だけどさ、やっぱりお前さんは尻の青い小娘さね」
「どういうこと?」
「経験が浅いってことだよ。何でもわかったつもりでいるみたいだけどさ、人間は謙虚さってもんが必要なんだ。そこがまだわからないところが小娘だって言ってんのさ」
 このに及んで小馬鹿にする天女に、わたしはむっとなって言い返した。
「あんたみたいな偽善者に、謙虚にする必要なんてないでしょ?」
「そうだよね、お前さんが言うのはもっともな話さ」
 思いがけず、天女はしょんぼりした顔を見せた。だけど、これはわたしを油断させようとしているに違いない。わたしは天女をにらみ続けたが、天女は悲しげな目でわたしを見つめながら、でもね――と言った。
「こんなあたしにだってさ、たった一人だけね、信じたい、信じてもらいたいって思った人がいたんだよ」
「へぇ、そんな人がいるの。だけど、その人だってあんたが偽善者だってわかったら、さぞがっかりするでしょうね」
「確かにそうだね。がっかりするだろうね」
 天女は寂しそうに目を伏せた。お芝居に決まっているだろうから、わたしは警戒しながら言った。
「そう思うんだったら、心を入れ替えたらどうなの?」
「いいんだよ。これがあたしなんだし、もうその人の本心っていうのがわかったからね」
「あきらめちゃうの?」
 天女は顔を下に向けたまま、じろりとわたしを見た。
「あきらめるも何も仕方ないだろ? 相手が自分をどう思うかなんて、相手が決めることであって、あたしが決めるわけじゃないからね」
「神妙なこと言っちゃって。そう思うんだったら、その人に悪く見られる前に、早く偽善をやめて本当の善人になったら?」
 天女はため息を一つついてから言った。
「誰もさ、初めから好きで偽善者になるわけじゃないんだよ。いつの間にかそうなっちゃって、自分でもどうにもできなくなっちまうもんなのさ」
 天女の言葉はわたしの胸に突き刺さった。まるで自分のことを言われてるみたいだ。そのせいで、わたしの天女に対する言葉は少し優しげになってしまう。
「そんな風に決めつけないの。今だったらまだ間に合うから、偽善をやめるのよ」
「もう間に合わないさ」
「そんなことないって」
「そんなことあるんだよ。あたしはその人に本当の姿を見られちまったんだ。その人だけが、あたしの最後の心の支えだったんだけどね。もう何もかもおしまいさ」
 死人の女もカラス天狗も本音を隠せなくなって消えた。二匹の言霊ことだまが消えたのは、自分の本音を認めて救いを求めようとしたからだと、わたしは思っていた。だけど天女は本音を認めながらも、救いを求めることをあきらめているようだ。これでは天女は久美に取りいたままで、久美を解放できない。
 もう時間がないと思うけど、外の様子はわからない。とにかく急がなければ、取り返しがつかないことになってしまう。あせったわたしは口調が荒くなった。
「おしまいだって思うんなら、他の二匹みたいに、あんたもさっさと消えなさいよ」
 天女はまたわたしをじっと見つめ、ふっと笑った。
「そうだね。そうするよ。正直言えばさ、今までおばあちゃんの所へ行くのを迷ってたんだよ。だけど、お前さんが消えろって言うんだもんね。もう消えるしかないさね」
 天女の言葉に、わたしはぎくりとなった。どうして天女の口から、おばあちゃんの話が出て来るのか? わたしの言うとおりに消えるって、どういうこと?
「ちょっと、何言ってんの? 何であんたがおばあちゃんの所へ行くわけ? て言うか、あんたにもおばあちゃんがいるの?」
 天女は笑みを浮かべたままだったが、やはりその目は悲しげだった。それがさらにわたしの心にさざ波を立てる。
「まだわかんないみたいだから、最後にあたしが信じたいって思ってた人が誰なのか、お前さんに教えてあげようね」
「え? それって、わたしが知ってる人なの?」
「そうだよ。お前さんがよーく知ってる人間さ」
「わたしがよく知ってる人? 誰なの、それは?」
「その人はね――」
 天女は迷ったように口をつぐむと、じっとわたしを見つめた。うろたえたわたしは、強気を装って天女をにらんだ。
「何よ? もったいぶらないで早くいいなさいよ!」
 寂しげに笑った天女は、じゃあ言うよと言って、またわたしを見つめた。
「その人の名前は――」
 白鳥しらとり春花って言うんだよ――と天女は言った。
「え? わたし?」
 一瞬どきっとしたわたしは、すぐに怒りを覚えた。
「何でわたしなのよ! い加減なこと言わないでよ!」
「お前さんがそんな風に言うのは、お前さんがあたしのうわつらしか見てなかったからさ」
「何わけのわかんないこと言ってんのよ! わたし、あんたなんか知らないよ!」
「お前さんの態度や言葉は、今のあたしに向かって投げかけたものだろ? お前さんが知らなかった、本当のあたしに対するあんたの気持ちがこれなのさ」
「やめて! そんなこと言って、わたしを混乱させるつもりなんでしょ?」
 天女がこんなことを言うなんて思いもしなかった。だけど、どうして天女はわたしの名字まで知っているのだろう? 一抹の不安がよぎったわたしに天女は言った。
「あたしはね、もしかしたらお前さんだったら、本当のあたしを見ても、あたしから離れないかもしれないって、ちょっぴり期待してたんだ。だからさ、日が沈んだあとにおばあちゃんの所へ行くのをためらってたのさ。だけど……、結局はお前さんも他の連中と一緒だった。でも恨んだりはしないよ。悪いのは偽善者のあたしなんだからね」
「何言ってんの? 変なこと言わないでよ! それじゃあ、まるであんたは――」
 そうだよ――と天女はしょんぼりして言った。
「あたしを言い放ったのはね、この兵頭久 ひょうどう 美自身なのさ。だから、あたしは言霊だけど兵頭久美でもあるんだよ。そして、あたしが信じたかった、たった一人の人間っていうのはね。白鳥春花、お前さんだったんだよ」
 わたしはぞわっとした。だけど、そんなこと信じられるわけがない。
うそをつかないで! あんたも二枚舌があるんでしょ?」
 腹を立てたわたしに、天女は静かに言った。
「あたし、つまり兵頭久美は偽善者なんだよ。お前さんがこのことを受け入れられなくたって、それが真実なんだ」
「何とでも言いなさい。わたしは絶対信じないから」
 天女は構わず話を続けた。
「何であたしが偽善者になったか知りたいだろ? あれはこっちの中学校でのことさ。あたしたちのクラスに、東京かとうきょう ら来た女子がいてね。今のあたしみたいな言葉で喋ったもんだから、みんながその子を馬鹿にしたのさ。もちろんあたしも一緒にね」
「久美はそんなことはしない! 久美はとっても優しい子なんだから」
 ありがとう――と天女は言った。
「だけどね、どんなに優しくたって、意地悪な気持ちはあるものさ。それが人間ってもんなんだ。春花だってそうだろ?」
 天女はわたしを春花と呼び、のぞき込むように私を見た。わたしは圧倒されて何も言えなかった。
 顔を上げた天女は昔を思い出すように横を見上げた。
「あたしはね、片親ってことでずっと肩身の狭い想いをして来たんだ。だから中学校ではそのことを隠してさ、クラスの友だちに気に入ってもらおうと、何かにつけてみんなに合わせて生きて来たんだよ。そうしなけりゃ、また嫌な想いをさせられちまうからね」
「それでみんなと一緒に転校生を馬鹿にしたって言うの?」
「そのとおりさ。だけどね、誰かを馬鹿にしてるときの自分って、いつもの自分と真逆だろ? だからさ、なんか気分がよくってさ。気がついたら、自分からその子のことを馬鹿にするようになっちまったんだ」
 自分にだって思い当たることはある。だけど、天女の話を受け入れてはおしまいだ。
「そんな嘘、わたしは信じないからね!」
「信じようと信じまいと、それは春花の勝手だけどさ。事実はそうなのさ」
「久美はその子をかばって、みんなから攻撃されたんだよ? その久美がその子を馬鹿にするわけないでしょ?」
「どうしてあたしがみんなから責められたのか。それは単にその転校生をかばったからじゃないんだ。あたし自身がその子を馬鹿にしてたからこそ、お前は偽善者だって責められたんだよ」
「じゃあ、どうして馬鹿にしてたはずの相手をかばったりしたの? そんなことしたら、みんなから責められるのはわかってたはずでしょ?」
 そうなんだけどさ――と天女はため息をついた。
「あたしは知ってしまったのさ。その子も父親がいなかったんだって。それで、みんながそのことでその子を馬鹿にしているのを、黙ってられなくなっちまったんだよ。お陰であたしも片親だってことがばれちまってね。何も知らない連中に、死んだ父親のことを馬鹿にされたもんだから、もう大喧嘩おおげんかさ」
 天女の話は筋が通っている。わたしが聞いている話とも矛盾がない。違うのは、わたしが知らない部分だけだ。そこが天女の作り話なのかどうかはわからない。わたしは天女が作った話だと思いたかったけど、本当のことのようにも思えてしまう。
 だけど、そうなっては天女の思うつぼだ。い加減に作り話はやめろとわたしは言った。だけど天女の話は続いた。
「みんなから偽善者って言われても、あたしはそれを否定できなかった。だって、そのとおりなんだからね。それで、あたしは学校にいられなくなったんだよ」
「違う違う! 久美が学校にいられなくなったのは、怪我させたのがPTA会長の娘だったからよ」
 天女はふんと言うと、あのくそ娘と顔をしかめた。
「確かに、あの馬鹿をとっちめたことは影響しただろうさ。だけどね、一番の理由はあたしが偽善者で、一人だけいい子ぶろうとしたと見られたからなんだ」
「久美がその転校生をかばったのは、いい子ぶろうとしたからじゃないでしょ?」
「それはそうだけどさ。もしあの子に父親がいないってわからなかったら、あたしは他の連中と一緒に、あの子のことをからかい続けただろうね。みんな、それがわかってるからさ。それで、いい子ぶるんじゃないよってなったわけ」
「だけど……」
「一番つらいのは、そんなあたしをおばあちゃんだけは信じ続けてくれてたってことさ。あたしは大好きなおばあちゃんをあざむき続けた、ひどい孫娘なんだ」
 わたしは何も言えなかった。天女の話を否定する言葉を探したけど、見つけることができなかった。
松山まつやまにいられなくなって、あたしは自分のことを誰も知らない東京へ、母親に勧められるまま移って来たんだ。だけど来てみれば、今度は自分の方が田舎者って馬鹿にされる側になっちまった。あたしさ、ほんとにもう何もかも投げ出したくなってね。それで運動会のあの日、屋上へ上がったんだ。そこへ突然現れたのが、春花だったってわけなんだよ」
 わたしは天女の話を疑う気持ちがなくなっていた。初めて久美に出会ったときのことを思い出すと、あのときの久美の気持ちが思いられ、わたしは涙ぐんだ。
「春花はやっぱり優しいねぇ。あたしさ、春花が声をかけてくれて、あたしのこと親友だって言ってくれたとき、ほんとにうれしかったんだよ。あたし、春花だけは信じられるって思ったんだ」
 気がつけば、天女の声は喋り方は違っていても久美の声だった。わたしには天女の言葉が久美の言葉のように聞こえていた。
「だけどさ、あたしは偽善者だからね。春花に本当の姿を見せることはできなかった。そんなことをしたら春花を失うんじゃないかって思ってさ。ずっと本当のことが言えなかったんだよ」
 わたしの目から涙がこぼれた。久美の気持ちは痛いほどわかる。わたしだって同じだ。
 わたしは八方美人だった。だけど、それを久美に知られたくないから、真弓まゆみたちから久美を隠そうとしていた。自分の本当の姿を見られたくなかったのは、わたしだって同じだった。そう叫ぶと、そうじゃないよと天女は言った。
「あたしは東京から来た転校生を、みんなと一緒になって馬鹿にしたのに、春花はそうはしなかったよね。聞いたよ、春花、あの子たちに嘘をついたのは、あたしをかばうためだったんだね。あんなことになるのはわかってただろうにさ。あたしとは大違いさ。学校に出て来なくなった春花が肺炎になったって聞いたとき、あたしは心底自分を憎んだよ」
「わたし、そんないい子じゃない。だから――」
「もういいよ、何も言わなくったって。もう全部ばれちまったんだから。あたしは偽善者なんだ。善人づらして、ほんとは人のことなんかどうだっていい人間なんだよ。春花が言うとおり、あたしは自分が傷つくのが嫌で、それでいい子ぶってたのさ。だから本当の友だちなんかできないし、どこへ行っても独りぼっちなんだ」
「そんなことない。久美にはわたしがいるよ!」
「もういいって言ってるじゃないか。春花があたしを親友だって言ってくれたのは、ほんとのあたしを知らなかったからだもんね。でも、それでいいんだよ。春花は何も悪くないんだよ」
 わたしは必死になって弁解した。心の中はあせりと後悔でいっぱいだった。
「今みたいにほんとのことを話してくれてたら、わたし、久美の力になろうとしたよ。久美から離れようなんて考えないから。だってわたしたち、心がつながってるんだもん」
「泣かせることを言ってくれるじゃないか。だけど、今更さ。あたし、春花に全部喋って何だか清々せいせいした気分だよ。他の誰にも話せなかったことを、春花には話せたんだ。あたしの大事な春花。あたしの大好きな春花。あたしの話を聞いてくれてありがとう」
「よくない! 話はまだ終わってないから! 聞いて! わたしだって偽善者なの。わたしも人の陰口言ったことあるし、自分が傷つきたくなくて、何でも人のせいにしてたんだよ! 久美のことを親友だって言っておきながら、真弓たちから離れられなかった八方美人だったの。久美と谷山とのことを疑ったりもしたよ。だから一緒なの! 同じなの!」
 天女は涙ぐみながら言った。
「やめておくれよ。一度は決心した気持ちが揺らいじまうじゃないか。ほら、夕日が……夕日がもう沈む。あぁ、なんて切なくて悲しい夕日なんだろ。あれが沈みきったら、春花ともお別れだ。あたしはおばあちゃんの所へ行くね」
 わたしは周りを見た。だけど、そこに見えるのは金色こんじきの霧だけだ。水晶たちのスクリーンはここにはない。それでも天女には外の景色が見えているらしい。何かをじっと見つめならが涙ぐんでいる。
「だめよ! おばあちゃんの所へ行っちゃだめ! そんなことしたって、おばあちゃんは喜ばないよ!」
 天女は何も言わないし、わたしの方を見ようともしない。遠くを見つめながら独り言のように、あとちょっとだとつぶやいている。
 わたしは取り返しがつかないことをしてしまったと、パニックになっていた。死人の女とカラス天狗をやっつけたことで、調子に乗っていたようだ。
 天女は悲しげな目をわたしに向けた。
「春花、お別れだよ。一時いっときではあったけど、こんなあたしの友だちになってくれてありがとね」
「だめ! 死んじゃだめ!」
 わたしは久美に抱きついた。だけど本物の久美はぼーっとしたままだ。
「久美が死んだら、風船たちもみんな死んじゃうよ! わたしだって……、わたしだって生きていけなくなっちゃうよ!」
 わたしが必死に呼びかけても、久美は反応してくれない。代わりに天女が、さぁ行くよ――と言った。
 そのとき、わたしは久美の胸で何かが光っているのに気がついた。それは沈みゆく夕日のような赤と金色の混ざった光で、小さいけれど温もりがある。わたしは直感で、これは久美のおばあちゃんの言霊だと思った。おばあちゃんが久美に聞かせてくれた、あの言葉が久美の胸に残っているのに違いない。
「久美、おばあちゃんのことを思い出して! おばあちゃんは何て言ってた?」
「久美はおばあちゃんの所へ行くんだ。春花は黙って見送っておくれ」
 天女が言った。だけど、久美はぼんやりしたまま何も言ってくれない。
 わたしは天女をにらんで言った。
「あんたは久美の本心なんかじゃない! 久美が自分をいつわろうとする想いよ! あんたは自分自身を偽って、自分が久美の本心なんだって思い込んでるだけよ!」
 天女は反論せずに、にやりと笑った。もう何を言っても無駄ということか。だけど、ここであきらめるなんてできない。わたしは久美を揺さぶりながら叫んだ。
「久美、おばあちゃんの言葉を思い出して! おばあちゃんは夕日を悲しいなんて言わなかったでしょ? おばあちゃんはこう言ったはずだよ! 夕日見てきれいじゃて思うんはな、あんたの心がきれいなけんよ。花見て……、えっと、花見て――」
 もうだめだ。肝心な所で続きの言葉を忘れてしまった。どうすることもできず、わたしは久美を抱きしめた。無駄なこととはわかっているけど、そうするしかできなかった。
「花見て素敵じゃて思うんはな、あんたの心が素敵じゃてことなんよ」
 久美の声が聞こえた。
 え?――わたしは顔を上げて久美を見た。久美が涙にれた笑顔でわたしを見つめている。
 額の天女は微笑みながら、すっと姿を消した。久美はわたしを抱き返しながら、うれしそうに言った。
「春花、うちの春花。だんだんな。だんだんありがとう」