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屋上でのお弁当

 運動会も午前の部が終わり、昼の休憩時間になった。生徒たちはそれぞれの家族の所へ散って行った。家族の応援席や体育館など、あちらこちらに分かれての昼食だ。親しかった生徒たちも、このときだけはバラバラだ。
 朝に持たされた弁当箱と水筒を手にさげて、わたしは母の姿を探して回った。だけど、どこにも母はいなかった。母は万が一と言ったけど、ほんとはお昼に間に合わないとわかっていたに違いない。だから、わたしに弁当を持たせたのだろう。
 わたしはがっかりしながら、弁当を食べる場所を探した。独りぼっちで食べているところなんか、誰にも見られたくない。なのに、どこへ行っても誰かがいた。
 いくら朝ごはんを食べないことに慣れたって、お昼になればおなかが空くし、今日は身体をいっぱい動かした。お腹はぐぅぐぅ言っている。でも、このままでは弁当を食べられずに、午後の競技を迎えることになってしまう。
 困ったなと思って校舎を眺めたわたしは、いいことを思いついた。今は教室の中には誰もいないはずだ。
 わたしはそっと校舎に忍び込むと、教室へ向かった。
 外はにぎやかだけど、校舎の中は別世界みたいにひっそりしている。ひんやりした廊下を歩いて一年一組の教室へ行くと、思ったとおり誰もいない。
 だけど一年生の教室は一階なので、窓から中が見える。おーいと誰かに呼びかけながら走る男子生徒の姿が窓の向こうに見えると、わたしは教室から廊下に出た。
 一階はだめだ。だけど、さすがに他の学年の教室に無断で入るわけには行かない。どうしようと思いながら、足が勝手に階段を上がって行った。途中の薄暗い二階と三階の廊下は、やっぱりわたしを拒絶しているようだったので、足は自然と屋上へ向かった。
 でも、屋上に出る扉は鍵がかけられているかもしれない。いや、絶対にかけられているはずだ。
 屋上の入り口に着いたわたしは、試しに扉のノブを握って回してみた。すると、驚いたことに扉はガチャリと開いた。
 気持ちのよい青空が目に飛び込むと、ようやく居場所を見つけた喜びが、わたしの胸に広がった。
 わたしは胸を弾ませて、屋上へ足を踏み出した。だけど次の瞬間、その喜びは凍りついた。何と、そこには先客がいた。でも、すぐにわたしは気を取り直した。
 先客の女子生徒は、運動場からは見えない側のフェンスに、背中をもたせかけて一人でパンをかじっていた。はいているズボンは紫色だ。
 この子は二組でいじめを受けている。そのことに気がついたとき、わたしは憤慨ふんがいしたはずだった。でも、結局はこの子を助ける勇気がなかった。
 ちょっと谷山に気持ちがかれたりもしたけれど、あれは自分の責任から逃げていたんだと気がついていた。そんなわたしに神さまは、もう一度責任を果たすチャンスを与えてくれたに違いなかった。
 扉の音が聞こえたからだろう。転校生は驚いたようにこっちを見ていた。目が合ったわたしは覚悟を決めた。静かに扉を閉めると、前に出ながら明るく声をかけた。
「ごめんね。誰もいないと思ったんだ」
 転校生は慌てたように食べかけのパンを袋に仕舞い、黙ってわたしの横をすり抜けた。わたしは振り返って、扉のノブに手をかけた転校生に話しかけた。
「ねぇ、よかったら一緒に食べない? わたし、独りぼっちで食べないといけないからここへ来たんだけど、やっぱり一人より二人の方がいいからさ」
 転校生はノブを握ったまま動かない。わたしはもう一声かけた。
「お願い、一緒に食べて。助けると思ってさ」
 転校生はノブから手を離さないまま、怪訝けげんそうな顔だけをこちらへ向けた。
「助ける?」
 初めて聞いた声は、わたしたちの言葉と少しイントネーションが違う。でも、そんなことは気にしないで、わたしは話を続けた。
「今日ね、ほんとはお母さんが見に来てくれるはずだったんだ。だけど仕事の方が大事みたいで、やっぱり来られないって、今朝になって言われたの」
 転校生はノブから手を離すと、真っぐわたしの方を向いた。
「わたしには高校生の兄貴がいるんだけどさ。両親は兄貴のことばっかり大事にしてね、わたしのことなんか、一つも大事に思ってくれないんだ。かっこ悪い話だよね。あれ? 何で初めて会った子にこんな話するんだろ。誰にも言ったことないのに……」
 それは本当のことだった。真弓まゆみたちだけでなく他の友だちの前でも、自分の弱味になるような話はしてこなかった。それなのに、この転校生には口が勝手にしゃべってしまう。
 おまけに悲しい気持ちが込み上げて来て、涙までこぼれてしまった。そんな自分にあせりながらも、わたしは出始めた涙を止めることができなかった。
 転校生は扉から離れ、うなだれるわたしの肩を抱いてくれた。
「泣かいでもええよ。うちでよかったら、話聞くけん」
 初めて聞く言葉だった。西の方の言葉みたいだけど、何だか温かい響きがある。

 転校生は辺りを見回したけど、屋上だから椅子なんてない。それでフェンス近くに座ることになって、わたしたちは互いに向き合って腰を下ろした。
 泣いてしまったことが恥ずかしく、弁当と水筒を下に置くと、わたしは両手で涙をぬぐった。そのあと何を喋ればいいのかわからず黙っていると、向こうから話しかけて来た。
「うちは一年二組の兵頭 ひょうどう久実くみって言うんよ。愛媛えひめから転校して来たん」
「愛媛? 愛媛って――」
「やっぱり、わからんか。愛媛はな、四国しこくにあるんよ。四国はわかるやろ?」
 わたしは日本地図を思い浮かべながら、どこが四国だったっけと考えた。久実は苦笑して、わたしたちが座っている所に、指で日本地図を描いた。
「日本て、ここが北海道で ほっかいどう 、ここが本州じ ほんしゅう ゃろ? ここが九州で きゅうしゅう な、ここが四国や」
 土の上じゃないから、コンクリートを指でなぞっても地図は描けない。わたしは久実の指の軌跡を目に焼きつけて、実際にはない地図で、久実が指差す四国の位置を確かめた。
 久実はもう一度四国を指で描いたあと、九州と本州が接する部分と、海を挟んで向き合った所を指し示し、そこが愛媛だと教えてくれた。
 うなずくわたしに、久実は愛媛はミカンで有名だと言った。なるほど、それなら聞いたことがある。わたしがもう一度うなずくと、久実はうれしそうに笑った。
 その笑顔がとても可愛いくて、わたしは久実が好きになった。それに、さっきまではいじめられて落ち込んでいただろうに、その久実が笑顔を見せてくれたことは、わたしには何よりうれしかった。
「わたしは白鳥春花しらとりはるか。一年一組なんだ」
「じゃあ、お隣のクラスなんじゃね」
「うん、お隣。クラスは違うけど、たった今からわたしたちは友だちだね」
「友だち?」
 久実はちょっと戸惑とまどったのか、返事を返してくれなかった。
「迷惑……かな?」
 わたしが困ると、久実は慌てた様子で首を横に振った。
「ううん、迷惑なんかやないけん。ただな……」
「ただ?」
「ただ、うちなんぞが友だちでかまんのじゃろかて思たけん……」
 久実の言葉はわからない所もあるけれど、何を言いたいのかは理解できた。
「あの……、あなたのこと、久実って呼んでもいい?」
 久実はちょっとだけ驚いた顔を見せたけど、こくりとうなずいた。わたしは久実に、自分のことは春花と呼ぶよう頼んだ。
 久実は遠慮がちに、春花――とわたしに呼びかけ、わたしは明るく返事をした。うれしそうな久実に、今度はわたしが、久実――と呼びかけた。久実は丁寧に、はい――と答えた。
 二人の心の間に、見えない橋がかったみたいな気がした。運動会より仕事を優先した母に、わたしは感謝したい気持ちになった。

「わたしね、久実が初めてなんだ。さっきみたいに本音の話ができたのは」
「何で、うちに?」
「わかんない。わかんないけど、こんなこと、初めてなの。他の人と喋るときは、こんなこと言ったら何て言われるかな、こう言ったら嫌われるかなって、気をつかってばっかりでね。楽しそうなふりはするけど、ほんとは楽しくないって言うか、何か自分が思ってる友だちっていうのとは、ちょっと違うかなって思ってたんだ」
 久美は真剣な顔でわたしを見ながら言った。
「わかるよ。春花のその気持ち、うち、わかる」
「ほんとに? ほんとに、わかってくれる?」
「うん。うちもね、おんなしこと思いよった」
 気持ちが通じ合うって、何てうれしいんだろう。そう、わたしはこんな友だちが欲しかったんだ。
 わたしは家のことや自分の友だちのこと、自分が何も取り柄がなくて自信がないことなんかを、夢中になって久美に喋った。
 久実は何度もうなずきながら話を聞いてくれて、自分だって何もできないし、本当の友だちなんかいなかったと言った。
「ところで、久美はどうしてこっちの学校に転校して来たの? やっぱりお父さんの仕事の関係?」
 わたしの問いかけに、久美は困ったような顔を見せたが、すぐに笑顔で言った。
「まぁ、そがぁなとこかな。ほんでも、うっとこもお父ちゃん忙しいけん、ほとんど母子家庭なんよ」
「ほんとに? じゃあ、わたしと似たようなもんだね」
「ほうじゃねぇ」
 はにかんだように笑う久美に、今日はお母さんは一緒じゃないのかとわたしは尋ねた。
 久美は笑みを消すと、母親は昨日から熱を出して寝込んでいると言った。
「せっかくの運動会だけど、それどころじゃないね。でもお母さん、運動会を見に来られなくて残念がってたんじゃない?」
「まぁね。ほんでも、お母ちゃんに見せられるほどのもんやないけん」
 少し目を伏せがちに久美は言った。久美が言ったのは一〇〇メートル走や創作ダンスのことだろう。自分が活躍できる競技なら親にも見て欲しいけど、悲惨な結果がわかっているものは見せたくない。ましてや、いじめられているところなんか、絶対に見られたくない。
 わたしは久美がいじめられていることには触れず、転校して来たばかりなのに、あれだけできたのはすごいと久美を褒めた。
 久美は出たくないのを無理に出されたと言ったけど、それでも出たことはすごいとわたしは褒めまくった。
「わたしだったら仮病になって休んじゃうよ。それを出たんだもん、久美は偉いよ」
「そがぁ言うてくれるんは春花ぎりやで」
「ぎりって?」
 少し困ったように笑うと、何々だけという意味だと久美は言った。
「ほやけん、春花ぎりじゃて言うんは、春花だけやていう意味なんよ」
「なるほど、ぎりか」
 うなずくわたしに、久美は言った。
「うち、最初は運動会休むつもりやったんよ。ほんで、お母ちゃんにそがぁ言うたら、休んだらいけんて怒られてな。しょうことなしに来たけんど、ほんでも来てよかったわい。こがいして春花と知り合うことができたんやもん」
 やっぱり久美の言葉は少しわかりにくい。それでもわたしは一生懸命に耳を傾け、久美の気持ちを喜んだ。
「そう言ってもらえたらうれしいな。ねぇ、つい喋ってばっかりになったけどさ。そろそろお昼ご飯を食べようよ。久美はお母さんが熱出しちゃったから、コンビニでパンを買ったんでしょ? よかったら、わたしのお弁当を半分こしようよ」
「え? ほんなん悪いわ」
「悪くなんかないよ。それに久美が持ってたパン、わたし好きなんだ。だから、そのパンを半分くれたら、交換したことになるじゃん。ね、そうしよ?」
「ほやかて、食べさしやで?」
「いいじゃん、友だちなんだから」
 わたしにうながされて、久美は食べかけのパンを袋から取り出した。
「ほんまに、こんなんでかまんの? さらのパンがあったらよかったけんど、うち、これしかうてなかったけん」
「さらのパンって?」
「あれ? こっちではそがぁ言わんの? まだ食べとらん新しいパンのことや」
「へぇ、新しいことを、さらって言うんだ。面白いね」
 笑うわたしの顔を、久実はじっと見つめた。
「何? どうしたの?」
「うちの言葉、変?」
「変じゃないよ。こっちの言葉と違うだけでしょ? そんなの、住んでた所が違うんだから、当たり前じゃん」
 もし喋った相手が久実でなければ、慣れない言葉を変だと思ったかもしれない。でも、久実のお陰でそんな風には思わないで、方言を面白いと受け止めることができた。それでも久実は、まだ半信半疑の様子だ。
「ほやけど、変な感じがするやろ?」
「だから、変じゃないってば。面白いねって言ったのも、そういう意味で言ったんじゃないよ。同じことを表現するのに、違う言い方があるって面白いと思わない?」
「ほれは、ほうやけんど……」
「二組の子たちは、久美の言葉、変って言うの?」
 久美はうなだれるようにうなずいた。わたしは久美の肩をポンとたたいて、気にしないの――と励ました。
「言いたい人には言わせておけばいいよ。わたしは久美の言葉、柔らかくて温かい感じがするから好きだな」
「ほんまに?」
「ほんまほんま」
 久美の言葉を真似て答えると、久美はようやく笑ってくれた。
「それじゃあ、そのパンもらうね。代わりに、こっちのお弁当を半分食べて」
 わたしは久美から食べかけのパンを受け取ると、自分の弁当箱を久美に渡した。弁当のふたを開けた久美は、美味うまそうや!――とうれしそうな声を上げた。特に久美が注目したのは、毎度お馴染なじみのタコさんウィンナーだ。
「このタコさんウィンナーな、うち、憧れよったんよ」
「こんなもの、どこの家だって作るでしょ? 久美の家では違うの?」
「うっとこのウィンナーは、ただ切れ目を三本ほど入れていためるぎりなんよ。ほやけん、他の人の弁当にこれが入っとるん見よってな、食べてみたいなぁて思いよった」
「お母さんに作ってって言えばよかったのに」
「言うたんやけどな。ほんときはわかった言うんよ。ほやけど、いざこさえるときには、いつものウィンナーなんよ。ほやけん、いつか自分でこさえよて思いよったけど、まだこさえとらんのよ」
「うちの親もそんなとこある。よかったら、タコさんウィンナーは全部食べてもいいよ」
「全部もらうわけにはいけんよ。半分この約束やけん」
 久美はタコさんウィンナーを一つ口に頬張ほおばると、よく味わうように口を動かした。
 しばらくしてウィンナーを飲み込んだ久美に、わたしは感想を聞いてみた。久美はウィンナーの味だったと答えた。それはそうだとわたしが笑うと、当たり前やったね――と久美も笑った。
 他のおかずは定番の卵焼きと、昨夜ゆうべの残りの鳥の唐揚げ。それにミニトマトとブロッコリーだ。わたしは野菜が嫌いなので、ブロッコリーは全部久実に食べてもらった。それだけでも、今日久実と友だちになれたのはラッキーだ。
 ブロッコリー以外を半分食べた久実は、ごちそうさまでした――と満足そうに両手を合わせた。
「ああ、美味おいしかった。春花のお母ちゃんにうたら、お礼を言わないけんね」
「だめだよ。そんなことしたら、ブロッコリーを食べてもらったってわかっちゃうよ」
「あ、ほうか。ほら、いけんね」
 久美が笑い、わたしも笑った。
 わたしは卵焼きを食べたあと、残っていたタコさんウィンナーを箸に取り、久実の顔の前に持って行った。
「ほら、あげるよ」
「いけんよ。自分で食べや」
「いいから食べなよ」
「ほんまに、ええの?」
「ほんまほんま」
 久実はにっこり笑うと、パクリとウインナーを食べた。うれしそうな久実の顔を見ていると、少しも惜しいと思わない。
 わたしは唐揚げとご飯をパクパク食べると、最後にミニトマトを口に放り込んだ。噛んだ瞬間、ガシュッと口の中に甘酸っぱい汁が弾けた。いつもは大して美味しいと思わないトマトだけど、今日のは甘くて美味しかった。

 今何時だろうと思ったけど、時計なんか持っていない。校舎の壁には大きな時計があるけど、屋上からではわからない。それに下手へたにのぞいて、屋上にいるのを誰かに見られたら大変だ。屋上には勝手に出入りしてはいけない決まりがあるから、先生に大目玉を食らってしまう。
 だけど出入り禁止のはずの屋上の扉の鍵が開いていて、久実が一人でここにいたなんて偶然とは思えない。そのことを久実に話すと、久実も同じ気持ちだと言ってくれた。
 きっとわたしたちは出会う前から何かで結ばれていて、ここでこうして出会う運命だったに違いない。そう言うと、久実は喜んでくれたけど、少し悲しそうな顔になった。
「どうしたの? 何でそんな顔するの?」
「ほんまは、うちなんか春花の友だちにはなれんのに」
「なんで? なんでそんなこと言うの?」
「ほやかて……」
 久美が黙ってしまったので、わたしは久美が初めてできた本当の友だちだし、久美と友だちになれたことが、ほんとにうれしいと熱く語った。
 久美は目を伏せたまま、だんだん――と言った。
「だんだんって?」
「ありがとて言う意味や。丁寧に言うたらな、だんだんありがとうて言うんよ」
「そうなんだ。じゃあ、あたしも言うよ。久美、あたしと友だちになってくれて、だんだんありがとう」
 久美はようやく笑顔に戻って、さっきの言葉のことを謝った。
「妙なこと言うて堪忍かんにんな。春花と友だちになれたこと、うち、ほんまにうれしいんよ」
「よかった。それじゃあ、約束だよ。今日からわたしたちは親友だからね」
 わたしが右手の小指を出すと、久実はちょっとだけ戸惑い、それから自分の小指を出した。
「指切りげんまん。二人は親友だよ」
 わたしたちは互いの小指を絡めた手を、何度か小さく振った。わたしは満足したけど、久実は立てたままの小指を悲しげに見つめていた。
 でも、わたしが見ていることに気がつくと、久美は慌てたように指を引っ込めてにっこり笑った。