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言霊

「お前さぁ、それって、その転校生にめっちゃ失礼なんじゃねぇの?」
 口の中の物を飲み込んだあと、兄貴は箸の先をわたしに向けて言った。
「どうして失礼なの? わたしは久美くみに嫌な思いをさせないようにしただけだよ? 久美だってちゃんとわかってくれたんだから」
 言い返したわたしは、母に同意を求める目を向けた。だけど、母は黙って食事を続けるばかりで、何も言ってくれない。
 兄貴は軽蔑するような顔をしながら言葉を続けた。
「わかってくれたって言うけどな、お前にそんな風に言われて、そこでその子がへそを曲げられるか? お前だけが頼りなのに、そのお前の言うことに逆らえるわけねぇだろ?」
「違うもん!」
 兄貴はため息をつくと、あのな――と言った。
「逆の立場になって考えてみろよ。お前が愛媛えひめに転校したとしてだな、そこで初めてできた友だちが、お前と一緒にいるところを誰かに見られないよう、こそこそしてたらさ、お前、どんな気分になる?」
「わたし、こそこそなんてしてないもん! ちゃんと早苗さなえに紹介して、三人で一緒に帰ったんだからね」
「そいつの話をしてんじゃねぇんだ。お前と普段仲よしのあの二人に、その転校生を会わせようとしなかったんだろ? そのことを言ってんだよ!」
 普段仲よしという言葉には反発したくなった。だけど、真弓まゆみ百合子ゆりこと一緒にいることが多かったのは、事実だから言い返せない。そこは聞き流してわたしは反論した。
「だって真弓たち、久実のことを馬鹿にするんだもん。久実を会わせたら、久実が嫌な思いをするじゃないよ!」
「お前が本当にその転校生のことを大事に思ってんなら、隠したりしないで、堂々と会わせりゃいいんだよ。それで、その子が馬鹿にされるような人間じゃないってことを、あの二人に教えてやればいいんだ」
「二人に話が通じなかったら、どうすんのよ?」
「そんときはしょうがねぇだろ。お前が大事に思う方を取ればいいじゃん」
「勝手なこと言わないでよ。こっちの苦労も知らないくせに!」
 わたしがにらむと、兄貴はふっと笑った。
「要するに、お前の苦労って言うのは、あっちにもこっちにもいい顔したいってことなんだろ? 結局、それってきれいごとを言ってるだけじゃん。お前がやったことは、その転校生のためじゃなくて、自分のためだな。お前、自分を守ろうとしただけなんだろ?」
「違うもん!」
 わたしが大声を出すと、ようやく母は口を開いた。
「そんなに大きな声を出さないの。それより、二人とも早く食べなさい。せっかくのハンバーグが冷たくなっちゃうじゃないの。これ、高かったんだからね」
 兄貴はほこを収めて、言い争うのをやめた。だけど、わたしの方は収まらない。気持ちが高ぶったままで、食事をする気にもならない。
「オレ、高い冷食のハンバーグもいいけどさ。やっぱ、母さんの手作りのハンバーグがいいな。安物の肉でもね」
「最後の一言が余計よ」
 母が注意しながら笑うと、兄貴も一緒になって笑った。二人の笑顔がわたしをさらに腹立たしくさせた。我慢ができなくなって、わたしは勢いよく立ち上がった。
「ごちそうさま」
「あら? ほとんど食べてないじゃないの。ちゃんと最後まで食べなさい!」
「おなかいてないの!」
「それじゃあ、これ、いただき!」
 兄貴は反省することもせずに、わたしの皿に手を伸ばした。思わずわたしが兄貴をにらむと、何だよ?――と兄貴はわたしをにらみ返した。
「お前、もうごちそうさまなんだろ? だったら、オレが食ったっていいじゃんか」
「どうすんの、食べるの? 食べないの?」
 母の口調はしかられているみたいだった。
「食べない」
 わたしは横を向いて席を離れ、兄貴の後ろにあるドアへ向かった。それが二人への精一杯の反抗だった。
 兄貴はわたしの皿を引き寄せながら、あのさぁ――と母に言った。
「母さん、クッキーの焼き方知ってる?」
 ドアノブに手をかけていたわたしは、思わず動きを止めた。
「知ってるけど、どうしたの、急に?」
「実はね、オレの友だちがさ。自分が焼いたクッキーを学校に持って来たんだよ」
「友だちって、女の子?」
 わたしのこめかみ辺りが勝手に引きつった。
「男だよ、男」
「男の子がクッキーを焼いて来たの? へぇ、それは珍しいわね」
「そいつね、食べることが好きでさ。将来はケーキ屋になりたいって言うんだ」
「じゃあ、ケーキも作るの、その子?」
「そうなんだって。でも、ケーキは持って来れないから、代わりにクッキーを持って来たんだけどさ。これがまた美味うまいんだ。それで、うちのクラスではちょっとしたクッキーブームになっててね。男子も女子もいろいろ作って持って来るようになったんだ。だから、オレもちょっと作ってみようかなってね」
「へぇ、そうなんだ。時代は変わったものね。お母さんが学生だった頃は、男の子がクッキーを焼いて持って来るなんて、有り得なかったわよ」
「まぁ、そういうわけでさ、今度暇があるときにクッキー作るの手伝ってよ」
「いいわよ。じゃあ、今日は無理だけど、明日の晩にでも作ろうか」
「ほんとに? やった!」
 わたしは両手で顔をこすって顔の筋肉をほぐすと、くるりと兄貴たちの方へ向いた。
「どうしたのよ、何笑ってんの? 部屋へ戻るんじゃなかったの?」
 わたしの様子をずっと見ていたであろう母が、からかうように言った。気恥ずかしさが笑みを浮かべる手助けをしてくれる。
「お兄ちゃん、クッキー作るんだって?」
 わたしは兄貴の肩越しに明るく声をかけた。兄貴はあからさまに嫌そうな顔を見せた。
「お前にゃ関係ねぇだろ? 食い終わったんだから、さっさと部屋へ行けよ」
「お兄ちゃーん」
 わたしが甘えた声で抱きつくと、兄貴は面食らったように慌てふためいた。
「こら、やめろ。気持ちわりいんだよ!」
「そんなこと言わないで、わたしにもクッキー焼いてくんない?」
「何でオレがお前にクッキー焼かねぇといけねぇんだよ? クッキー食いたいんなら、自分で焼いたらいいだろ?」
「お兄ちゃんのクッキーが食べたいの。お・ね・が・い」
 パチパチさせた目で見つめながら、顔を近づけると兄貴は悲鳴を上げた。
「わかったから離れろ! 離れろってば!」
「ほんとね? 約束だよ?」
 兄貴は死にそうな顔で、わかったよ――と答えた。わたしは自分の席に戻ると、兄貴の前にあった自分の皿を引き戻した。
「おい、何だよ。さっき食わないって言っただろ?」
「気が変わったの。女心と秋の空って言うでしょ?」
 わたしがハンバーグにかぶりつくと、兄貴はくやしそうに母を見た。母は笑いながら、これにて一件落着!――と言った。

 木曜日の今日は部活がない。放課後になると、わたしは早苗の所へ行った。真弓と百合子が声をかけて来たけど、今日は早苗と帰るから先に帰ってて欲しいと言った。この日は久実と一緒に初めて早苗の家に行き、早苗が描いた漫画を見せてもらうのだ
 運動会が終わってから、わたしは久実と一緒に通学を始めた。今ではそこに早苗も加わり、わたしたちは仲よし三人組になった。
 休憩時間には、わたしは大概早苗のそばにいるようになった。早苗と一緒だと、廊下に出て久美と会うのも不自然さがないように思われた。久美もうれしそうで、早苗にはほんとに大感謝だ。
 ただ、真弓や百合子と過ごす時間が少なくなったことが気にはなっていた。日曜日にあげるはずだったクッキーを今日二人にあげたから、今のところは大丈夫だと思う。でも、いつかそのうち二人が怒り出すのではないか、という不安があった。
 それでも早苗の家に着いたら、そんな気持ちも一気にどこかへ消え失せてしまった。
 決して広くはない早苗の部屋には、本棚が二つあった。そのどちらの本棚にも、漫画の本がびっしり並んでいた。わたしと久実は思わず声を上げて、自分がお気に入りだった本や、まだ読んでいない有名漫画家の本を夢中で手に取った。
 一方、早苗の机には描きかけの漫画があった。とてもハイレベルな絵で、紙の横には専門的な漫画の道具がある。それを見ると、改めて早苗は特別な人間だと感心させられた。
 ひととおり本棚の漫画を吟味したあと、わたしと久実は本命である早苗の漫画を見せてもらうことになった。
 早苗は待ってましたとばかりに、机の引き出しを開けた。中にはこれまでに描いた、いくつもの漫画が入っていた。早苗はその漫画の原稿の束を取り出すと、二つに分けてわたしと久実に手渡してくれた。
 最初に描いたという漫画は短い恋愛もので、ちょっと絵のタッチやストーリーが素人しろうとっぽいように思えた。でも、そのあとの漫画は描き重ねるにつれて、絵もストーリーも上手うまくなっていた。
「サッチー、絶対に漫画家になれるよ。わたし、断言する」
「うちも断言する。高橋たかはしさん、ほんまにすごいわ。中学生とは思えんで」
 二人で絶賛すると、早苗は大喜びした。
 早苗の話では、両親は早苗が漫画を描くのを認めてくれてはいた。でも、漫画家なんかになれるはずがないから、他の人たちみたいに高校や大学を受験して欲しいと願っているらしい。それで早苗は漫画家の夢を諦めていたそうだ。
 だけど、わたしと久実がべた褒めしたので、諦めるのはやめると宣言した。
 そのとき、部屋のドアをノックする音が聞こえた。早苗が声をかけるとドアが開いた。
「いらっしゃい」
 顔を見せたのは、早苗のお母さんだ。
 早苗がわたしたちを紹介したので、わたしも久実も立ち上がってお辞儀をした。お母さんは、にこにことうれしそうにしながら言った。
「この子の部屋を見てびっくりしたでしょ? この子ったら勉強もしないで、漫画ばっかりだから」
「でも、さっき見せてもらったんですけど、すっごく上手じょうずに描けてますよ」
 わたしが早苗をかばうと、久実も一緒にうなずいた。お母さんは、わたしたちの反応がわかっていたみたいで、ほんとに?――と笑顔を崩さないまま早苗を見た。
 早苗も援軍がいるからか、ほらねと言う顔でお母さんを見返した。
 お母さんは何かを言い返す様子もなく、あのね――と言った。
「お茶とお菓子を用意してあるんだけど、よかったらこっちで食べない? おばあちゃんがね、あなたたちの話を聞きたがってるのよ」
 わたしと久実は顔を見交わした。早苗からは漫画の話しか聞いていない。おばあちゃんがいるとは初耳だった。前に聞いていたとすれば、すっかり忘れていたことになる。
「無理にとは言わないけど、どうかしら?」
 お母さんがうながすように言うと、早苗は困惑顔をわたしたちに向けた。だけど、わたしも久実も笑顔でうなずき、お母さんの誘いを受けることにした。

「まぁまぁ、素敵な娘さんたちだこと」
 小さなテーブルでわたしたちを迎えてくれたのは、六十過ぎと思われるお洒落しゃれな感じのおばあちゃんだった。こざっぱりした格好かっこうで笑顔がとても愛らしい。一目見ただけで、お話好きだとわかる雰囲気がある。
「さぁ、どうぞ」
 お母さんに勧められて、わたしと久実はおばあちゃんと向き合うように並んで座った。テーブルは四人がけで、早苗はおばあちゃんの隣に座り、お母さんは台所から持って来た踏み台を、テーブルの横に置いて腰かけた。
 テーブルの上には、それぞれの席にお茶と大福もちが置かれてあった。
 おばあちゃんへの挨拶が終わると、食べながら話しましょうとお母さんが言った。
 だけど、わたしも久実も遠慮してなかなか手をつけられない。おばあちゃんが大福を頬張ほおばるのを待って、それからようやく食べることができた。
 大福は上品な甘さのあんこがたっぷりで、わたしと久実は思わず顔を見交わして、美味おいしい!――を連発した。
 わたしたちが喜んだので、お母さんもおばあちゃんも満足気な様子だった。
 おばあちゃんはお茶を一口すすったあと、わたしに話しかけた。
白鳥しらとりさんは、早苗と同じ美術部なんだってね」
 わたしは小さくうなずいた。でも、早苗と絵の上手うまさを比べられているようで、気恥ずかしかった。
 すると、久美がわたしが描いた絵のことを挙げ、わたしには他の人にはない感覚があると言った。わたしは慌てて否定したけど、早苗もおばあちゃんたちも、その絵が見てみたいと言った。
 わたしは全然大したことないからと、久美の言葉を打ち消そうとした。だけど早苗はわたしには不思議なところがあると言い、わたしが見た産まれる前の夢の話を、おばあちゃんやお母さんに聞かせた。二人がうなずきながらわたしに興味深げな顔を向けると、わたしは気恥ずかしさでいっぱいになった。
「サッチーだって、お母さんのお腹の中にいたときのこと、覚えてるって言ってたじゃない!」
 つい早苗の秘密事をしゃべってしまったので早苗は慌てた。だけどお母さんもおばあちゃんも、へぇと驚いた様子を見せただけで、早苗を笑ったり否定するようなことは言わなかった。
 逆に、どんなことを覚えているのかと二人が尋ねるので、早苗はぎこちなく説明した。
 話を聞き終わったお母さんは、おばあちゃんとうなずき合ったあと、真面目な顔で早苗に言った。
「おそらく早苗が言うことは本当よ。お母さんはもちろんだけど、お父さんもおばあちゃんも、私のお腹の中にいるあなたに向かって、毎日のように声をかけてたんだから」
 早苗は驚いた顔でわたしと久美を見ると、本当に?――と、お母さんたちに言った。
 お母さんとおばあちゃんが声をそろえて、本当だよと答えると、早苗の目からみるみる涙があふれ出た。
「あらあら、どうしたの? 泣いたりして」
 お母さんは、微笑みながら早苗に声をかけた。
「わたし……、自分がそんなに望まれてたなんて知らなかった……。わたし、自分なんて認められてないって思ってたの……。だから、今の話もね……、本当は愛されてたんだよって……、自分に言い聞かせるために……、勝手に妄想してたんじゃないかって……」
「何言ってんの。お母さん、なかなか子供に恵まれなくてね。何度もお父さんやおばあちゃんと一緒に神社へ行って、子供を授かりますようにってお願いしたのよ。それで、やっと産まれた子供があなたなの。だからね、あなたは神さまからの授かりものよ。そんなあなたを大事に思わないわけがないじゃない」
 お母さんは涙ぐみながら言った。おばあちゃんの目にも涙が光ってる。
「お前のお父さんが漫画の道具を買ってくれたのだって、お前を大事に思っているからこそじゃないのかい? ただ趣味でやるのと、それを商売にするっていうんじゃわけが違うからね。そこをあたしたちは心配してるんだよ」
 早苗は下を向いたままだった。わたしは早苗に代わって、お母さんたちに言った。
「サッチーは漫画家になりたいんです。だけど、漫画家なんかになれるわけないって、お母さんたちに言われて自信をなくしてたんです」
「高橋さんのぇは、ほんまに上手じょうずやと思います。高橋さん、いくつも漫画描いとって、絵ぇも上手やし話もとっても面白おもしろいです。ほやけん高橋さん、きっと漫画家になれると、うちは思います! 絶対なれます!」
 久美も一緒になって早苗を支持してくれた。
 わたしは心強い気持ちで、お母さんとおばあちゃんを見つめた。二人は少し困ったように互いを見たけど、お母さんはわたしたちの方を向くと、わかったわ――と言った。
「そのことについては、あとでお父さんと相談してみましょう。ただね、わたしたちはそういう世界を知らないから心配なのよ。だから大学はともかく、せめて高校ぐらいは出て欲しいな」
 お母さんの言葉におばあちゃんもうなずいた。
「絵が上手っていうだけじゃ、いい漫画は描けないんじゃないのかい? 漫画を描くためにも、いろいろ経験することは必要だと、あたしゃ思うけどねぇ」
 わかったと早苗を言うと、涙の顔を上げた。
「高校は行く。でも漫画部のある高校がいい」
「そんなのがあるのかい?」
 おばあちゃんが驚いたように言った。
「わかんないけど、漫画が描ける学校がいい」
「もし漫画部がなかったら、自分で作ればいいじゃん」
「ほうよほうよ。ないなら、自分でこさたらええんよ」
 わたしと久美が応援すると、そうかと早苗の顔が輝いた。
「なければ自分で作ればいいんだよね。白鳥さんや兵頭さんの言うとおりだ。わたし、そうする。漫画部がなかったら自分で作る」
「他にも漫画が描きたい言う人らが集まって来たら面白おもろいで」
「確かさ、まんが甲子園っていうのがあるんだよね。あんなのも参加すれば楽しそう」
 ほんとだ――と早苗の顔はますます明るくなった。まだ中学一年生なのに、すっかり高校で漫画を描くつもりになったみたいだ。
「世の中ってやつは、どんどん変わって行っちゃうんだねぇ。あたしたちの頃には考えられないようなことを、今の人たちはやろうと思うんだねぇ」
 おばあちゃんはやっぱり不安みたいだった。でもおばあちゃんの言葉は、早苗の希望を認めてくれたように聞こえた。
 よかったね――と久美が早苗に言った。早苗は涙にれた笑顔で大きくうなずいた。
 わたしは自分が、こんな場面に関われたことがうれしかったし、ちょっぴり誇らしかった。わたしと微笑み合った久美も、きっと同じ気持ちなのだと思う。
「あとで早苗が描いた漫画を、あたしにも見せておくれ」
 おばあちゃんが言うと、早苗はうれしそうにうなずいた。

 しばらく早苗の漫画の話が続いたあと、おばあちゃんは久美の話がまだだったと、思い出したように言った。
 急に自分の出番になった久美は、少し言いにくそうにしながら、愛媛えひめから移って来たことや、家庭の状況を説明した。
 お母さんやおばあちゃんは、慣れない土地での久美の暮らしをねぎらいながら、愛媛の話をして欲しいと言った。二人とも愛媛はもちろん四国しこくのことも、よく知らないらしい。
 久美が愛媛の名所を教えると、道後どうご温泉は有名だとおばあちゃんが言った。何でも三千年の歴史がある温泉らしい。
 どこが一番のお勧めかと聞かれると、久美は伊予灘いよなだの夕日だと答えた。それはどこかと言う二人に、久美はわたしに聞かせてくれたのと同じ説明をし、そこで見る夕日は最高ですと言った。すると、お母さんやおばあちゃんもそうだけど、早苗までもが行ってみたいと言ったので、久美はうれしそうだった。
 わたしは黙っていられなくなって、伊予灘には久美の素敵なおばあちゃんがいると言った。そうなんだとお母さんに言われて、久美がうなずくと、どんなところが素敵なのかとおばあちゃんが尋ねた。
 久美は困って、とても優しいおばあちゃんですとは言ったものの、あとの説明ができなかった。そこでわたしは、あの言葉をみんなに教えてあげてと言った。
 久美は戸惑とまどった様子だったけど、どんな言葉か聞きたいとお母さんもおばあちゃんもせがむので、久美は覚悟を決めたように姿勢を正し、おばあちゃんのあの言葉を披露した。
「素敵なことを言ってくれるおばあちゃんだね」
 早苗がうっとりした様子で言うと、お母さんも感想を述べた。
「いいわよねぇ、土地の言葉って。それに、おばあちゃんの言葉、ほんとに素敵だわ」
 おばあちゃんもうなずくと、真面目な顔で言った。
「今の言葉は、あなたのおばあさまの人生がぎゅっと詰められているみたいだね。言葉に魂が籠もってるよ」
「魂……ですか?」
 久美が遠慮がちに尋ねると、そうだよ――と言って、おばあちゃんはわたしにも目を向けた。
「昔の人はね、どんなものにでも魂があるって考えてたんだよ。山を神さまに見立てて拝むのだってそうだし、いつも使っている道具だって、自分の相棒だと思って大切にしたものさ。それと同じで、人の口から出て来る言葉にもね、その人の魂の一部が含まれてるって思ってたんだ。だからね、それを言霊ことだまって言うんだよ」
 考えたこともなかった説明に、わたしは感心した。久美も神妙に話を聞いている。だけど、早苗は普段からこんな話を聞かされているようで、当然という顔でわたしに言った。
「だからね、うそをつくって、よくないことなんだよ」
「嘘って何の話?」
 お母さんがわたしと早苗の顔を見た。わたしがあせると、一般的な話だと早苗は言った。
 おばあちゃんはうなずくと、嘘はよくないと言った。わたしは穴があったら入りたかった。
「嘘ってやつはね、人をあざむこうっていう思いが言葉になったものなんだ。だけどね、嘘は相手だけでなく、自分自身をも欺くんだよ。人っていうのは、本来正直な生き物なんだ。でも、嘘をつくのはね、自分は不正直な人間なんだって、自分に言い聞かせるようなものなのさ。本当は真っ当な正直者の自分にね」
「嘘を繰り返すと、どうなんの?」
 早苗が調子を合わせるように尋ねた。きっと答を知っているだろうに、わたしに聞かせるために聞いたに違いない。ちらりと早苗を見てから、おばあちゃんは言葉を続けた。
「人から信用されなくなっちまう。それはわかるだろ? 人をだますやつは誰からも信じてもらえなくなるんだよ。でもね、気をつけなくっちゃいけないのは、悪意のない嘘だよ」
「悪意のない嘘?」
 顔を見交わしたわたしと久実に、いいかい?――とおばあちゃんは言った。
「誰かを騙すつもりがなくっても、本当の気持ちと違うことを言っちゃうことってあるだろ? 本当のことを言うとひどい目に遭うとか、馬鹿にされるとか、惨めな気持ちにさせられるとかさ。だけど、いくら嘘を続けたって、いつかは嘘だってわかってしまうものなんだ。そうなったら、おしまいだよ。悪気がなくたって、大嘘つきって言われちまう」
 わかるだろ?――とおばあちゃんは、わたしたちの顔をのぞくように眺めた。まるで心の中を見透かされているみたいだ。
「そのときに素直にごめんなさいって言えれば、まだいいんだよ。でも言えなかったら、どこにも居場所がなくなっちまう。そうなったら悲しいし腹も立つだろ? その気持ちを人にぶつけたら余計に孤立しちまうし、自分にぶつけりゃ、せっかく生まれて来た人生を捨てることになっちまうよ。もう自分なんかどうだっていいやってね」
 お説教をされてるみたいな気分になって、わたしの目は机の上の湯飲みを見ていた。それに気づいたのか、今度はお母さんが慰めるような声で言った。
「悪気がない嘘なんて、あたしたちだって、つい口にすることがあるからね。そんなに気にすることはないのよ。おばあちゃんが言いたいのはね、嘘をついたかどうかってことよりも、自分の本当の気持ちを大事にしてるのかってことなのよ」
 おばあちゃんもまずかったと思ったのか、さっきより明るい口調で喋った。
「嘘はともかくね、人を責めるような言葉も慎まないといけないよ。褒める言葉はいいけどさ。誰かを責めるような言葉は、相手に呪いの言葉を投げかけるのと同じなんだ。だから誰かに何かを伝えるときには、言葉に気をつけなきゃいけない。そうは言っても、あたしたちもつい余計なことや、人を傷つけるような物言いをすることがあるんだけどね」
「ほんとよね。あたしたち、さっちゃんのことをあんなに傷つけてたなんて、さっきまでわかってなかったもの。ごめんね、さっちゃん」
 さっちゃんというのは、早苗のことらしい。早苗はその呼び方が恥ずかしかったのか、もういいよ――とうるさそうに言った。
「とにかくさ、兵頭さ ひょうどう んのおばあさまは素晴らしい人だっていうことさね」
 おばあちゃんのこの言葉で、言霊の話は終わりになった。

「サッチーのおばあちゃん、面白い人だったね」
 帰りがけ、わたしは久美に言った。そう言うことで、自分が平気だと見せたかった。
 もう日が暮れかけていて、辺りは薄暗くなり始めている。夕暮れ時の寂しさのせいなのか、笑顔でうなずいた久美は、何だか少し沈みがちにも見えた。
「ねぇ、もしかしてわたし、調子に乗って余計なこと言ったかな?」
 心配になって尋ねてみたけど、久美は微笑んで首を横に振った。
「春花は何も悪いこと言うとらんよ。春花のお陰で、うちのおばあちゃんのこと、みんなに喜んでもらえたし、高橋さんのおばあちゃんからええ話を聞けたんやけん、春花にはお礼を言わんとね。だんだんな」
 わたしはほっとしたけど、やっぱり久美は寂しそうだ。
「ねぇ、わたしたち親友だからね」
「どがぁしたん、急に?」
 久美は戸惑ったように笑った。
 わたしは寂しそうな久美を励ましたかった。だけど、何と言っていいかわからなくて、思わず出た言葉だった。
「わたしと久美とサッチーの三人は、これからもずっと親友だって、今日思ったんだ」
「高橋さんも、そがぁ思とるやろか?」
「思ってるよ。でなきゃ、わたしたちを家に呼んだりしないよ。それに今日はサッチーにとって、特別の日になったんだもん。わたしたちは特別な関係だよ」
 久美は微笑みながら小さくうなずいた。だけど、やっぱり何だか悲しそうに見えた。