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風船たちの故郷

 二枚歯の口に吸い込まれ、身も心もグチャグチャにされながら、わたしは吐き出される一瞬を待った。さいなむ苦痛の相手をせずに、必死に入り口のことだけ考え続けた。
 ブシュッと吐き出されたとき、洞穴のようなものが一瞬目に入った。だけど身体は回転しているし、飛び出す勢いを制御できない。わたしはそのまま押し流されて行った。
 あそこが風船たちが言う入り口だとしても、これではとてもたどり着けそうにない。あそこへ入るのは至難しなんわざで、まさに運次第だ。自分の力だけでは無理だろう。
 落胆しながら運ばれて来たのは、あの大蛇たちの森だった。
 風船たちと一緒に、光の花が大蛇の瞳の洞窟へ吸い込まれている。中にいる炎を出す大蛇たちも、これでいくらかは安堵あんどするだろう。
 わたしは少しほっとしたけど、倦怠感が強い。最初の頃よりも、かなり具合が悪くなっている。疲労は極限で、何をするのもつらく億劫おっくうに感じてしまう。もう一度大蛇の瞳に入り、上空に見える向こう側へ行く自信はなかった。
 ふと見ると、大蛇がみついている岩の陰に、大蛇の瞳とは別の洞窟があった。風船たちの多くは大蛇の方へ流れて行くけど、一部はこの洞窟へ入って行く。わたしはそちらへついて行くことにした。

 岩の中に入ると、そこは広い空洞になっていた。鍾乳洞みたいな岩の柱が、何本も天井を支えるように立っている。鍾乳洞と違うのは、同じような柱が左右の壁を貫いていることだ。真横の柱もあれば、斜めの物もある。見ようによれば、巨大なクモの巣のようだ。
 柱を避けながら奥の方へ進んで行くと、上の方でピンク色の風船が集団で大きな球になっている。ピンク色の風船は初めてだし、風船たちがぴったり集まって塊になっているのも初めて見た。
 辺りを見回すと、地面近くにも同じようなピンク色の風船集団があった。そこへ行ってみると、このピンクの風船は赤や青の風船とは全然違っていた。胴体は透けていて、中に大きな目玉が一つある。この目玉は上下左右に向きを変えて、辺りの様子を眺めていた。
「あなたたち、誰?」
 わたしが尋ねると、風船たちの目が一斉いっせいにわたしの方を向いた。
 ――誰? ワカンナイ。
 同じ答がいくつも重なって聞こえた。その声は赤や青の風船たちのような小さな女の子の声だ。でも幼稚園児のようなとても幼い感じがする。
 眺めていると、だんだん色がピンクから赤に変わって行く風船がいた。その風船は目玉が、胴体の奥の方へ移動していた。
 やがてその目玉が見えなくなると、赤くなった風船はプチュンと集団から外れた。その姿はこれまで見て来た赤い風船たちとそっくりで区別がつかなかった。どうやらピンクの風船たちは、赤い風船の子供のようだ。
 次から次に赤い風船が集団から外れて行くので、わたしは赤い風船が抜け出たあとの、空間をのぞいてみた。でもそこには何も見当たらないし、周囲のピンクの風船たちですぐに埋められる。
 何度か観察していると、赤い風船が抜けた直後の一瞬に、残された目玉が確認できた。でも、それはすぐに奥の方へ吸い込まれるように消えてしまった。
 奥で何やらゼリーのような物が動いているように思えた。でも小さな隙間だから、そこに何があるのかよくわからない。それに隙間は隣の風船たちに埋められしまい、それ以上は奥の方を確かめることができなかった。
「ここはあなたたちの家なの?」
 近くにいた赤い風船に、わたしは尋ねた。だけど、家というものがわからないらしい。そうですと答える代わりに、ここで自分たちは生まれたと風船は言った。
 どうして目玉がなくなるのかと聞いてみると、今度は目玉の意味がわからない。ピンクの風船の中にある、丸くて動く物だと説明すると、やっとわかってもらえた。
 風船たちはそれを失う代わりに、より多くの元気を運ぶことができるのだそうだ。
 それにしても、あれは目玉ではないのだろうか? 風船たちにとって、あの目玉みたいな物が何なのか尋ねてみると、昔の思い出と考える力だと風船は答えた。
「昔の思い出と考える力? じゃあ、あなたたちは昔のことを何も覚えてないわけ?」
 ――覚エテナイヨ。
「じゃあ、考える力は? あなたたちだって考えるんでしょ?」
 ――ムズカシイコトハ、ワカンナイ。
「だったら、あの子たちは昔のことを覚えてて、むずかしいことがわかるの?」
 ――タブンネ。デモ、ワカンナイ。
 ピンクの風船集団を眺めながら、わたしは集団の後ろへ回った。するとピンクの風船より、何倍も大きな薄いピンク色の風船がいた。その風船にも大きな目玉があって、ぎょろぎょろと辺りを見回している。その目玉がわたしの方を向いて動きを止めた。わたしのことを見ているのかと思ったら、その目玉の瞳の部分が、ぷっくらと膨れ出した。
 その目玉の瞳にできたこぶは、どんどん大きくなった。やがて胴体の外へ飛び出すほど膨らむと、その瘤は胴体の一部ごとプチンと風船の本体からちぎれて離れた。できたのは、あのピンク色の風船だ。元の大きな風船の方は、何事もなかったかのように、また大きな目玉をぎょろぎょろさせている。
 新しく生まれたピンクの風船は、ふわふわと漂い始めた。その先には、新たなピンクの風船集団ができつつあった。その集団の中心にいたのは、あのビーチボールだ。クラゲのようなつぶれた姿はしてなくて、少ししぼみ気味の丸い形をしている。新しいピンクの風船は、ビーチボールに近づくと、そのままぴたりとくっついた。
 既にくっついていたピンクの風船の一つが、目玉を後ろへ吐き出すように残して、ビーチボールから離れた。残された目玉はビーチボールに引っついたままだったけど、すぐにビーチボールの中に取り込まれた。そのあと、風船の目玉はイガグリと同じように、ビーチボールの中にある、たくさんの口に食べられてしまった。
 わたしは元の大きな薄ピンクの風船の所に戻ると、声をかけてみた。
「こんにちは」
 ――コンニチハッテ、何デスカ?
 年配の女性の声だ。
「挨拶の言葉よ」
 ――アイサツ?
「わかんなければ、いいの。ちょっと教えて欲しいんだけど、あなたの中にある、その目玉ね。それって本当は何なの?」
 ――メダマ?
 そうだった。目玉じゃわからなかったんだ。わたしは正しい言葉に言い直した。
「あなたの中にある丸くて動く物よ。昔の思い出と考える力って聞いたんだけど」
 薄ピンクの風船は、目玉らしき物をくるりと回転させた。
 ――コレデスカ?
「そう、それよ。それって何なの?」
 ――コレデ、方向ヲ理解シマス。
「方向って? どっちへ行くかってこと?」
 ――オコナイノ方向デス。
「行いの方向? 何それ?」
 風船は上手うまく説明できないみたいで、目玉みたいな物をくるくる回した。
「自分がすべきことを、どんな風にするっかってこと?」
 ――ソウデス。スルカ、シナイカヲ、決メタリモシマス。
 薄ピンクの風船が言いたいことはわかった。でも、この目玉みたいな物で、どうやってそんなことを理解するのかはわからない。
「あなたが産んだ子供たちは、行いの方向を理解できなくてもいいの?」
 ――コドモ? ワタシノ、分身ノコトデスカ?
「分身か。なるほどね。そう、その分身たちよ」
 ――何ヲ行ウカハ、決マッテイマス。考エル必要ハ、アリマセン。
「そういうことか。じゃあさ、昔の思い出っていうのは、どんなものなの?」
 ――ワカリマセン。
「え? だって、あなたの分身が言ったんだよ? それなのに、わからないの?」
 ――古イ記憶ガアルコトハ、ワカリマス。ドンナ記憶ナノカハ、ワカリマセン。
「じゃあ、記憶喪失ってこと?」
 ――記憶ソウシツ?
「昔のことを思い出せないってことよ」
 ――ムカシノコトハ、ワカリマセン。
「いいよ。ありがとう」
 ――神サマト、オ話シデキテ、光栄デス。
 もう神さまと呼ばれることに慣れてしまい、わたしは気恥ずかしさを感じなくなっていた。
 この風船をポヨンポヨンとたたくと、風船から困惑が混じった興奮が伝わって来た。神から嫌われているという思いと、神に認められたという喜びが入り交じった感じだ。
 わたしにしても、今にも倒れそうな疲れが、風船たちと喋っていると、少し癒やされて元気になれるようだ。

 少し行くと、今度はビーチボールの大きいのに出くわした。
 このビーチボールは中心部分に、線状のくぼみが縦に走っている。柔らかいおもちの真ん中を、ひもでぎゅっと縛ったみたいな感じだ。その見えない紐が、どんどんきつく締まって行くように、ビーチボールの表面にできた窪みは、胴体の中心に向かって深く食い込んで行く。
 胴体の真ん中には、例の目玉のような物がある。それも窪みの食い込みで、今にも左右にちぎれそうになった。と思ったら、ほんとにちぎれてしまった。当然、胴体の方も左右に分かれ、二つのビーチボールになった。
「あなたたち、こうやって増えてたのね?」
 わたしが声をかけると、二つのビーチボールは同時に、ハイ――と言った。虹の森で仲間のビーチボールに助けてもらった話をし、感謝してることを伝えると、二つともうれしそうに、アリガトウゴザイマス――と喜んだ。

 ビーチボールたちと別れてさらに行くと、今度はビーチボールの何倍もある、巨大なナメクジがいた。胴体は黄色がかった透明で、その中に大きな目玉がいくつも並んでいる。
 わたしはナメクジは苦手だ。うえぇと思いながら眺めていると、突き出た角の先っぽがぶっくらと膨らんだ。それはあの黄色い手毬てまりだった。
 手毬は角からプチンとちぎれると、辺りをふわふわ漂い始めた。
 手毬がちぎれたナメクジの角は、しゅるしゅると頭の中に縮んで戻った。すると、また頭の別の部分から、同じように二本の角がにゅるにゅると伸びた。その角の先は、さっきみたいに手毬となった。
 どうやらナメクジは手毬の親らしい。わたしは親近感が湧いて来た。
「ねぇ、あなたはどうして体の中に、丸い物がいくつもあるの?」
 ――大キクナルノニ、一ツデハ足ラナインデス。
 ナメクジは丁寧な言葉で答えてくれた。でも、やっぱり年配の女性みたいな声だ。
「何でそんなに、大きくならないといけないの?」
 ――小サイト、ダメダカラデス。
「どうして、小さいとだめなの?」
 ――大キクナラナイト、イケナイカラデス。
 これでは堂々巡りになってしまう。
「あなたは昔のことがわかるの?」
 ――ムカシ?
「やっぱし、わかんないか。いいよ、ありがとう」
 ナメクジと別れ、わたしは先へ進んだ。途中、ピンクの風船集団や、その風船たちを産む薄ピンクの風船、それに大きなビーチボールや、巨大ナメクジを何度も見かけた。だけど、そういう者たちとはまったく違う、不思議な生き物にわたしは出会った。

 その不思議な生き物は薄ピンクの風船より一回り大きくて、色は全然ついていない。まったくの無色透明で、空気や水みたいだ。
 それなのに何で気がついたかと言うと、それは大きな目玉のような物を一つ持っていたからだ。つまり、大きな目玉が一つだけ、ぽつんと宙に浮いていたわけだ。
 宙に浮いた目玉は、真下を向いたまま動かなかった。何だろうと思って手を触れようとしたら、手前にガラスのような硬く透明の物があった。それで、この生き物が透明なのがわかったんだけど、ガラスみたいな冷たさはなかった。
 わたしは両手で目玉の周辺を探りながら、この見えない生き物の形を確かめた。細かい所はわからないけど、触った感じでは上下につぶれた平べったい球のようだった。
 眠っているのか死んでいるのか。声をかけても返事がない。下を向いた目玉も全然動かない。
 だけど赤い風船たちは、この生き物にも張りついて元気を渡していた。ここにいる何かは生きているのかと尋ねると、眠っているだけと風船は言った。
 そのとき、下を向いていた目玉のような物が、ぐるんと向きを変えてこっちを見た。ぎょっとしながら声をかけたけど返事はない。
 透明だった生き物は少しだけ色を変え、透明ながらもその輪郭が見えるようになった。その姿はあのビーチボールそっくりで、大きなビーチボールと同じように、真ん中から分裂して二つになった。
 この生き物の正体は、ビーチボールだったのかと思ったら、またもや変化が起きた。分裂した一方は、ビーチボールのままだったけど、もう一方は、薄いピンク色になった。
 薄ピンク色の生き物は、中の目玉のような物がこちらへ突き出して来た。あれよあれよと言う間に、飛び出した目玉と胴体の一部は、ちぎれてあの薄ピンク色の風船になった。
 後ろに残った元の胴体の方は、今度は黄色に変化した。さらに、胴体の中の目玉のような物に、たくさんの角が生えた。角はどんどん伸びて胴体の外へ突き出した。まるでウニのような姿だ。
 巨大なウニのトゲの先は順番に膨らんで行き、かなり大きくなったところで、プチンとトゲの先からちぎれた。そうやって生まれた黄色い生き物は、中に目玉を持ったゼリーの塊みたいだ。そんなのが次から次にできて行き、水が入ったビニール袋みたいに、ポワポワしながら互いに寄り添い始めた。
 そのうち、この生き物たちは一つに融合して、あの黄色いナメクジになった。
 一方でウニの姿になっていた生き物は、伸ばしたトゲを体に戻し、目玉のような物から伸びた角も縮んでなくなった。体の色も次第に薄れ、元の見えない姿に戻ろうとしているようだった。中の目玉のような物も、ゆっくりと地面の方へ向いて行く。
「ちょっと待って! 寝る前に話を聞かせて!」
 慌てて呼びかけると、ほとんど下を向いていた目玉のような物が、少しだけわたしの方を向いた。胴体はほとんど見えなくなっている。
「あなたが、みんなのお母さんなのね?」
 ――オカアサン? 何ダネ、ソレハ?
 老婆のような、しゃがれ声が聞こえた。
「みんな、あなたの分身なんでしょ?」
 ――ココニイル者タチハネ。
「他の所にいる人たちは、あなたの分身じゃないの?」
 ――ソレゾレニハ、ソレゾレノ元ガイルンダヨ。
「そうなの? 他の所にも、あなたみたいな存在がいるのね?」
 ――ソウダヨ。
「あなたたちは、誰から生まれたの?」
 ――ミンナ、同ジ一ツノ存在カラ、生マレタンダヨ。
「じゃあ、昔はたった一つの、存在しかいなかったの?」
 ――ソウダヨ。昔ハ、タダ一ツノ存在ダケダッタ。
「それは、あなたの持つ古い記憶なの?」
 ――遠イ記憶ダヨ。
「その一番初めの存在って、今もどこかにいるの?」
 ――イルヨ。イツデモ、ドコニデモネ。
「よくわかんないよ。もうちょっと、わかるように言ってくれない?」
 ――ミンナ、一ツノ存在ノ、分身ナンダヨ。コノ世界ノネ。
 この生き物の言葉はむずかしい。でも、大切なことを告げているのは間違いない。
「それって、世界そのものが一番初めにあった、ただ一つの存在ってこと?」
 ――ソノトオリダヨ。
「よくわかんないけど、みんなが生まれる前は、世界はからっぽだったってこと?」
 ――空ッポジャア、ナイヨ。世界ハネ、愛デ満タサレテイタンダ。三ツノ愛デネ。
「三つの愛?」
 ――一ツノ愛ダケデハ、世界ハ産マレナイ。存在スルニハ、二ツノ愛ガ必要ナンダヨ。
「二つの愛が、世界を創ったんだね」
 ――ダケドネ、二ツノ愛ダケデハ、生マレルコトハデキテモ、育チハシナインダヨ。
「育たないとどうなるの?」
 ――消エユクノミダネ。ソウナラナイタメニハネ、モウ一ツノ、愛ガ必要ナンダヨ。
「もう一つの愛?」
 ――ソウダヨ。神ノ愛サ。
「え? わたしの?」
 思わずそう言って、わたしは少し恥ずかしくなった。でも、この生き物は気にする様子もなく話を続けた。
 ――カツテ、コノ世界ハ、アナタノ愛ニ満チテイタ。ダケド今ハ、憎シミシカナイ。
「ちょっと待って。わたし、この世界を憎んだりしてないよ?」
 ――今、世界ハ滅ビツツアル。ソレデモ世界ハ、アナタヲ……慕ッテイルヨ……。
 目玉のような物が下を向き始めた。もう胴体の方は全然見えない。
「待って! 眠っちゃだめよ! まだ話は終わってないってば!」
 伸ばした手が、硬いガラスのような胴体にさえぎられた。
 目玉のような物は完全に下を向き、この不思議な生き物は、もう何度呼びかけても、眠りから覚めてくれなかった。