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偽の神の正体

 わたしがたたずんでいたのは、光の霧の中だった。
 ここには風船たちも水晶たちもいない。不思議なことに、ずっと続いていた身体のだるさも消えていた。
 ここはどこだろう。霧の中で頭をめぐらせていると、どこからか罵声ばせいが聞こえて来た。
「こうなってしまったのは貴様のせいじゃ。何もかも貴様が悪いのじゃ。出来できそこないの貴様なんぞ、このまま消えるがいい!」
 光の霧で視界が妨げられ、周りで何が起こっているのかが全然わからない。
 わたしは両手を伸ばして霧の中を探りながら、声が聞こえる方へ近づいて行った。すると次第に光の輝きが弱まって、辺りはだんだん薄暗くなった。その暗さは一歩進むごとに濃さを増して行く。
「貴様のせいで、今までどれほどつらい思いをしたことか。貴様なんぞに、この悲しみはわかるまい」
 白黒の世界の中で、着物姿の女が背を向けて立っている。
 その女の前に誰かが倒れていた。罵声はこの着物の女が、倒れている誰かに向かって発しているものだ。
 怒鳴っている女に気づかれないようにしながら、わたしは女の横へ回ろうとした。そのとき、倒れている人物の顔が見えたわたしは、思わず驚きの声を上げた。そこに倒れているのは、わたし・・・だった。
 わたしの声に気づいて、怒鳴っていた女が後ろを振り返った。その女の顔を見たわたしは、二度目の驚きの声を上げた。
 髪を振り乱した女のひたいには、二本の角が生えている。赤い口元からは牙がのぞき、両手の指の爪は鋭く伸びていた。女は般若はんにゃだった。
 この般若こそが偽の神に違いない。と言うことは、般若の前に倒れているのは、身体のわたし・・・
 般若は怪訝けげんそうに目を細めると、小首をかしげながら二人のわたしを見比べた。
「貴様は誰ぞ?」
 恐ろしくてすぐには声が出なかった。それでもわたしは気持ちを落ち着けると、精一杯平気な顔を装った。
「神よ。この世界のね」
「神とな?」
 般若は目を大きく広げると、後ろにりながら大笑いをした。
「この暗い世界の神じゃと申すか。かような牢獄ろうごくごとき所にも神がおるのか」
 般若はわたしを馬鹿にした。だけど、それは般若がこんな狭い所しか知らない無知であることの表れだ。お陰でわたしは少し気持ちに余裕を持つことができた。
「あんたが知らないだけだよ。すぐそこまで行けば、まぶしいくらいに明るいんだから」
 般若は笑うのをやめると、ずいっと前に出た。わたしは思わず後ずさりをした。
「面白いことを言う。ならば、そこへ案内あないしてもらおうか」
「じゃあ、わたしのあとについて来ればいいよ」
 般若に背を向けるのは怖かった。だけど仕方がない。わたしは般若の先に立って歩き始めた。それでも気になってちらりと後ろを振り返ると、般若は黙ってついて来ている。
 ともすれば恐怖が込み上げようとする。だけど、わたしは神だ。わたしの身体の世界の責任者だ。風船たちを助け、身体のわたし・・・を救うという使命が、わたしの恐怖心を抑え込んでいた。
 しばらく歩いたけど、どういうことか、どこまで行っても暗闇ばかりだ。いつまで経っても光のある所に行き着かない。さっきまでいたあの場所はどこなのだろう。
「まだか? まだ明かりのある所には着かぬのか?」
 いら立ったような般若の声が、後ろから責め立てる。
 もう少しだからと言って、さらに歩いたけれど、やはり暗闇から出られない。光の場所からこの闇に入るまで、こんなに時間はかからなかったはずなのに。
 どうやら迷ってしまったようだとあせっていると、前方に誰かが倒れているのが見えた。近づくと、それはさっき見た身体のわたし・・・だった。
「元に戻ってしまったようじゃな」
 後ろで般若が勝ち誇ったように言った。わたしは般若を振り返って言い訳をした。
「待ってよ、本当なんだから。本当に光がいっぱいあったんだってば!」
「何が光じゃ、この大うそつきめが! 貴様もそこな女と同じように死ぬがいい!」
 般若が身構えながらにじり寄って来る。わたしは般若を見ながら後ろへ下がった。だけど、後ろに倒れていた身体のわたし・・・につまずいて、わたしは尻餅をついた。
 その拍子に身体のわたし・・・は小さくうめき声を出した。よかった。まだ生きているようだ。
「ねぇ、しっかりして!」
 わたしが揺り動かすと、身体のわたし・・・はうっすらと目を開けた。
「あなたは……」
 身体のわたし・・・が蚊の鳴くような声を出したとき、般若が呪いの言葉を放った。
「まだ生きておったか、この役立たずめが。さっさと死なぬか、このくずめ!」
 身体のわたし・・・は目に涙をいっぱい浮かべると、がくりと頭を落とした。声をかけて揺さぶってみても、ぴくりとも動かない。わたしは無性に腹が立って、般若をにらみつけた。
「あんたは何で、そんなひどいことを言うの? この子があんたに何をしたのよ!」
 般若はぎょっとしたような顔で、わたしをじっと見つめた。
「貴様……、何故なにゆえ平気でおれるのじゃ?」
「何言ってんの? わけわかんないこと言ってないで、ちゃんと説明してよ! 何であんたはこの子に意地悪をするの?」
 般若の耳にはわたしの言葉なんて入っていないみたい。般若はわたしを無視して再び呪いの言葉を吐いた。
「貴様は頭が悪く、動きも鈍い。まことの友もおらぬ上に、身内にとっての厄介者め!」
 今度の言葉はわたしの胸にぐさりと突き刺さった。わたしがひるむと、般若は勢いを取り戻したようだった。さらなる悪態をつきながら近づいて来た。
「さぞかしつらかろうの。友と信じた者に裏切られ、れた男を奪われたのじゃ」
「な、何であんたが、そんなことを知ってるのよ?」
「気の毒にの。醜女しこめでなければ、男を奪われずに済んだものを」
 やっぱり谷山たにやまのことを言われるのはつらい。わたしは唇をんだ。
「申してみよ。貴様に如何いかような価値がある? さぁ、申してみよ! 申せぬか。申せんわな。貴様なんぞに生きる価値なんぞあろうものか。そもそも産まれて来たのが誤りぞ」
 言い返せないわたしは、いつの間にかうなだれていた。くやしさに涙がこぼれ、その涙が倒れているわたし・・・ほおに落ちた。すると、わたし・・・が小さな声でつぶやいた。
「神……さま……、ごめんなさい……」
 やっぱりこのわたし・・・は、身体のわたし・・・だ。わたしの闘志に再び火がついた。このわたし・・・のために、あの風船たちのために、こんなことでへこたれてどうする?
 わたしは身体のわたし・・・を抱きかかえると般若をにらんだ。
「あんたが言ったことは全部本当だよ。わたしはブスだし、勉強も運動も苦手なの。やっとできた本当の友だちだって関係が壊れちゃった。でもね、こんなわたしでも慕ってくれる者たちがいるんだよ。それも、数え切れないぐらいいっぱいね!」
「貴様を慕う者がおるとな? さような者がどこにおると申すのか」
「この子よ」
 わたしは抱きかかえた身体のわたし・・・を見つめた。痩せ細って痛々しい姿だけど、ちっとも醜いなんて思えない。いとおしくて愛おしくてたまらない、わたしの大切な身体の心。
「この子はね、わたしの身体なの。この子の中には数え切れないぐらいの、この子の分身がいるのよ。その子たちはね、どんなにつらくたって、どんなに悲しくたって、みんな、わたしを慕ってくれてるのよ!」
「何をたわけたことを……」
「だいたい、何よ。さっきから人のことばっかり言って! あんた、自分はどうなの? あんたは何ができるの? 言ってごらん? そんな恐ろしい顔してるんだから、さぞかし恐ろしい化け物仲間がいっぱいいて、あんたのことを大事にしてくれるんでしょうね?」
 般若はわたしをにらみながら口をもごもご動かした。だけど反論はできない様子だ。それにしても、この般若は何者なんだろう?
「ほら、言ってごらん。あんだけ人のことをぼろっかすに言ったんだから。あんたはさぞかしすごいんでしょうね? ほら、言ってよ。あんたは何ができるわけ? 黙ってないで言いなさいよ!」
 わたしが立ち上がって前に歩み出ると、般若はじりじりと後ずさりをした。もう般若に対する恐怖心はなくなっていた。
「そんな姿してたって、ちっとも怖くないよ! そんな角を生やして、そんな牙や爪を見せられたって、全然怖くないんだから!」
 本当に襲いかかられたら大変だけど、何故か般若は襲って来ないという確信が、わたしにはあった。
 わたしに言い返せない般若はその場にへたり込み、うなだれてしくしく泣き出した。思ってもみなかった般若の姿に、わたしは思わず般若に駆け寄った。
 般若の肩に手をかけようとしたとき、般若は泣きじゃくりながら言った。
「だって……おとうさんもおかあさんも、いっつもおにいちゃんのことばっかりだもん」
 え?――驚いたわたしは、般若をまじまじと見下ろした。
 さっきまでの般若の声は恐ろしい女の声だった。でも、今のは幼い女の子の声だ。
「おにいちゃん、おべんきょうもできるし、走るのもはやいの……。でもね、わたし、おべんきょうもできないし、走るのおそいから、ほめられるのは、いっつもおにいちゃん」
「ちょっと、どうしちゃったの?」
「自転車だってね、ほんとは乗りたかったの……。だけど、こわかったし、おにいちゃんに笑われたから、乗れなくなっちゃったの……」
「あんた、もしかして……」
「おとうさんはおしごとばっかり……。おにいちゃんも遊んでくれないし……、おかあさんのこともね、がっかりさせてばっかり……。わたしね……、悪い子なの……。できそこないなの……。わたしなんか、だぁれもだいじに思ってくれないの……。だからね、だからね……、わたし、わたし……、鬼になるしかなかったの……」
 わたしは般若を抱き寄せた。着物の下に隠れた般若の体は、驚くほど小さくて着物はぶかぶかだった。ぽとりと落ちた般若の面の下にあったのは、泣きじゃくる幼い女の子の顔だった。そう、この子は幼い頃のわたし・・・だった。わたしは幼い自分を抱きしめた。
「いいのよ。もういいの……。あなたは悪くないよ。あなたは悪い子じゃないし、鬼でもないの。あなたはね、そのままでいいんだよ。あなたのことは、わたしがわかってる。だから、もう泣かないで」
 まだ泣き止まないわたし・・・に、わたしはしゃべり続けた。
「あなたはね、世界でたった一人の素敵な女の子なんだよ。あなたはお母さんのことが大好きで生まれて来たんでしょ? お母さんだってそのこと、ちゃんとわかってるし、お母さんもあなたが大好きなのよ。ただね、お母さんもいろいろ大変で、あなたにかまって上げられなかったの。でも、そんなお母さんを助けるために、あなたは生まれて来たんでしょ?」
 語りかけた言葉は、自分自身に言い聞かせるものでもあった。
 泣くのをやめて顔を上げた幼いわたし・・・を、わたしは励ました。
「思い出してごらんよ。悪いことばかりじゃなかったでしょ? ほら、わたしも今、思い出した。お父さん、動物園に連れて行ってくれたじゃない。ゾウさんやキリンさんやライオンさんと一緒に、写真を撮ってくれたの覚えてない? お父さん、あなたの写真ばっかり撮ってたからさ、お兄ちゃんむくれてたでしょ?」
 幼いわたし・・・は涙でいっぱいになったつぶらな瞳で、わたしを見ながらこくりとうなずいた。
「幼稚園で食べたお弁当。毎日美味おいしそうなおかずだったでしょ? あれだってね、お母さんが疲れてるのに、朝早く起きてあなたのために作ってくれてたんだよ。そうそう、あなたが風邪引いて寝込んだとき、お母さん、ずっとあなたのそばにいてくれたでしょ? わたし、知ってるよ。お母さん、あなたが心配で全然寝なかったんだから」
「おぼえてる……」
「ほらね? お父さんもお母さんも、あなたのこと大好きなの。お兄ちゃんだってさ、お友だちの所でもらったお菓子、あなたのために持って帰って来てくれたよね?」
 小さくうなずく幼い自分の頭をでてやりながら、わたしは思い出せる限りの家族との楽しい思い出を話してやった。そうしていると、自分が癒やされて行くような気がした。
 わたしは幼い頃から自分を責め続けていた。それなのに、今もまた幼い自分を責めてしまった。わたしはひどい言葉をぶつけたことを、幼いわたし・・・に謝った。
 幼いわたし・・・は首を振り、いじわるをしてごめんなさい――と言った。
 そのとき、闇の中に閃光せんこうが走った。同時に、母の叫び声が辺りに反響した。
はるちゃん、今、救急車を呼んだからね! 死んだらだめよ! あなたが死んだら、お母さん……、お母さん……どうして生きて行けばいいの……? だから、お願い。死なないで!」
 声を絞り出した母の嗚咽おえつが響く。
 やっぱり母はわたしを愛してくれていた。それはわかっていたはずのことだった。だけど、心のずっと奥の方にはね続けていた自分がいた。その自分が泣いているのを感じたとき、幼いわたしが涙ぐみながらつぶやいた。
「おかあさん……、おかあさん……」
 幼いわたし・・・はつぶやきながら、わたしの腕の中で光になった。その光はわたしを包み、いつの間にか辺りは光の霧に戻っていた。
 幼いわたし・・・は姿を消していた。だけど、わたしにはあの子がどこへ行ったのかわかってる。あの子はわたしの中に戻ったのだ。
 わたしはかがむと、倒れているもう一人のわたし・・・――身体のわたし・・・を助け起こした。
「しっかりして! お願い! もう二度とあなたのこと責めたりしないから、目を覚まして!」
 身体のわたし・・・は目を開けると、微笑みながらわたしの手を取った。
「うれしい。わたしのことを思い出してくれたんですね」
「今までごめんね。わたし、あなたのことをすっかり忘れて、自分一人で生きてるって思い込んでたの。本当にごめんね」
「わたし、あなたに思い出してもらいたくて、これまで何度もわたしを見てもらおうとしてたんです」
「それじゃあ、今までわたしをあそこに招いていたのは……」
「わたしです。でも今回はあなたの方から来てくれたんですね。ありがとう」
 わたしは感激でいっぱいになり、身体のわたし・・・をしっかりと抱きしめた。涙が勝手にあふれて止まらない。
 相手を想う互いの気持ちが、溶け合って一つになっていく。同時に、わたしとわたし・・・は一つに重なった。

 はっとなって目を開けたわたしの顔に、何かがかぶせられている。すぐ横に母がいて、涙を浮かべた目でわたしを見ていた。
「春ちゃん、気がついたのね? よかった!」
 母が喜びの声を上げると、母のそばにいた男の人が、わたしの顔をのぞきこみながら話しかけた。
「春花さん、わかりますか? もうすぐ病院に着きますからね」
 どうやらわたしは救急車に乗せられているようだ。ぶら下がった点滴の管が、わたしの腕につながれている。
「お母……さん……」
 わたしが弱々しい声で呼びかけると、母は泣きそうな顔で言った。
「何? どこか痛いの? 苦しいの?」
「お母……さん……、大好き……だよ」
 母が号泣したのは覚えている。でも、そのあとのことは覚えていない。次にわたしが目を覚ましたのは病室の中だった。

 ベッドの横には母と兄貴がいた。その隣には、遠い出張先にいるはずの父がいた。父は笑顔を見せたけど、その目は泣き腫らしたみたいに真っ赤になっていた。
 わたしは体力が落ちているところへ肺炎にかかってしまい、病院にかつぎ込まれたときには、かなり危険な状態だったらしい。それで、父は仕事も放り出して戻って来たそうだ。
 とは言っても、今もまだ具合は悪く、頭はぼんやりしているし息苦しさがある。一番の危機を脱しただけのことで、絶対安静なのは変わらない。それでもせっかく家族全員がそろったから、何か話がしたかった。
 酸素マスクをしているのと、倦怠感で けんたいかん 喋るのが億劫おっくうだったけど、耳を近づけてくれた兄貴を通して、わたしはみんなに心配をかけたことを謝った。父も母もそんなことはいいからと言ってくれたし、兄貴さえもが余計なことは考えるなとわたしをいたわってくれた。
 わたしは父を呼んで、自分の子供の頃の写真が欲しいと言った。思い出した記憶では、父には写真をたくさん撮ってもらっているはずだった。
 父が少しうろたえると、母が笑いながら父の弁解をした。
 父はわたしが可愛くて仕方がなく、こないだのお盆に家に戻ったときに、わたしのアルバムを持って行ったのだと言う。
 父は真っ赤になりながらとぼけていたけど、最後にはわたしをそっと抱いて、本当はずっと一緒にいたいと言ってくれた。わたしには大学の話をしないのも、お金の問題ではなくて、わたしを家から出すのが心配だったからだそうだ。
 慌てた様子のお年寄りが二人、病室に入って来た。父方の祖父母だ。二人はわたしの手を握り、何でこんなことにと言って泣いていた。
 わたしは幸せを感じていた。バラバラになっていた心と身体が一つになったばかりか、ようやく家族と一つになれたのだ。きっと、わたしの中で風船たちも喜んでいるにちがいない。