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本当の友だち

 この日は運動会でつぶれた日曜日の代休だ。だけど、母も兄貴も休みじゃない。
 いつもだったら母の仕事が早番でなければ、わたしと兄貴が母に見送られて家を出る。でも、今日はわたしが二人を送り出す形になった。とは言っても貴重な休みなので、朝は布団の中でゆっくりしていたい。
 結局、兄貴には挨拶もしないで、自転車が出て行く音を窓越しに確かめただけだった。
 行って来るね――と下から声をかけた母は、さすがに無視ができない。布団の中から大きな声で、行ってらっしゃいと返事をした。
 玄関に鍵をかける音がした。間もなくすると、駐車場のゲートが開く音が聞こえて、母の車のエンジンがかかった。いったん車が表に出たあと、今度はゲートが閉まる音。それから母が車に乗り込む音がして、車のエンジン音は遠ざかって行った。
 辺りが静かになると、二度寝をしようと、しばらく布団の中で横になっていた。でも、カーテン越しの陽射しで部屋の中は明るい。それに、母に大声で返事をしたのがいけなかった。すっかり目が覚めてしまって、ちっとも眠くならなかった。仕方なく身体を起こして一階へ下りたけど、誰もいない家は何だか居心地いごこちが悪い。
 今日は誰とも何の約束もしていない。わたしはスマホを持っていないから、誰かに連絡をしようと思ってもできないし、呼び出しがかかって来ることもない。
 昨日の運動会が終わったあとは、みんながんばったな――と先生から褒めてもらって解散となった。真弓まゆみ百合子ゆりこから一緒に帰ろうと誘われたけど、ちょっと用事があるからと言って、わたしは二人を先に帰した。だから、真弓たちと遊ぶ約束はしていない。
 二人を先に返したのは、久美くみと一緒に帰る約束をしていたからだ。
 真弓たちを先に帰した手前、久実と一緒にいるところを二人に見られるとまずい。それで、教室で少し時間をつぶしてから、わたしたちは家路に就いた。
 教室でも帰り道でも、しゃべったのは他愛のない話ばかりだった。それでもわたしは楽しかったし、久実も楽しかったと思う。
 別れ道になってもなかなか互いに離れがたくて、どうでもいいような話を、その場に立ったまま延々と続けた。久実がお母さんのことを思い出さなければ、暗くなるまで喋っていたかもしれなかった。それほどずっと喋り続けていたのに、今日どうするのかは相談しなかった。
 ほんとは今日、久実と遊ぶ約束をしたかった。だけど、久実のお母さんが具合が悪いから、久実を誘うのは遠慮した。
 久美もそう思ったから、今日のことを何も言わなかったのだろう。だから、お互いの家の電話番号も教え合っていない。でも今になって、わたしは後悔していた。今日のお母さんの具合を電話で確かめてから、どうするかを決めればよかったのだ。

 食堂のテーブルには、母が朝食を用意してくれていた。トーストとベーコンエッグと、わたしが嫌いなブロッコリーだ。だけど昨夜ゆうべ、お寿司を食べ過ぎたし、普段食べないから朝は食欲がない。
 わたしは冷蔵庫から牛乳を取り出すと、コップに注いで一口だけ飲んだ。まだ寝ぼけた様子の胃袋が、冷たい牛乳が流れ込んで来て驚いているようだ。
 コップを持ったまま隣のリビングへ行くと、わたしはソファーに座って、テレビのリモコンをつけた。だけど、どのチャンネルも面白い番組なんかやっていない。退屈だ。
 プチンとテレビの電源を切ると、わたしはリモコンをポイッと横に投げた。するとリモコンが何かにぶつかる音がした。何だろうと思って目をると、ソファーの隅に一冊の本が無造作に置かれていた。タイトルは「産まれたときの記憶」だ。
 手に取ってみると、誰かが図書館で借りた本のようだ。背表紙の所に本の記号と番号が書かれたシールが貼られてある。
 裏表紙をめくると、図書カードを差し込む紙ポケットがあった。その下には、兄貴の学校の判が押されてある。どうやら兄貴が学校から借りた本らしい。今日返すつもりだったのを忘れて行ったのだろう。頭はいいのに、こういうところは抜けている。
 小説かなと思ってめくってみると、どうもそうではないようだ。何か科学的な本みたいで、ちょっと文章がこむずかしい。
 パラパラと適当にページをめくって見ているうちに、話し言葉で書かれてある所があった。そこの少し前の方にページを戻して読んでみると、それは産まれたときのことを覚えているという人の体験談だった。
 この部分は読みやすい。書かれてあるのは、母親のおなかの中にいたときのことを覚えている人や、産まれて来たときに、笑顔で迎えてくれた人たちのことを覚えているという人の話だ。とても信じられない話ばかりだけど、まだ母親のお腹の中に宿る前から、自分を産んでくれる人の様子を、宙に浮かんで眺めていたという話まであった。
 わたしは馬鹿馬鹿しくなって本を閉じた。子供が読んでもわかるような作り話を、よくも真面目に取り上げるものだと、わたしはあきれながら著者を確かめた。著者は外国人のようで、名前が片仮名で書かれてある。日本人は外国人に弱いから、外国人が書いた本というだけで信じそうだ。この本を日本人が書いていたら、誰も読まないに違いない。
 わたしはリモコンの隣に、本を投げ捨てるように置いた。
 ――こんな本を読むなんて、お兄ちゃんは頭がいいと思ってたけど、本当は大したことないんだな。
 めったに味わうことのない優越感に浸ったわたしは、ソファーにもたれながら手に持った牛乳を一口飲んだ。だけど、いくらかっこをつけても、わたしが頭が悪いという事実は変わらない。
 現実に戻ると、退屈がわたしにのしかかって来た。わたしは天井を見上げ、久実の名前を呼んだ。

若草わかくさマンション。ここだな……」
 わたしは四階建てのこぢんまりした古びた建物を見上げた。
 結局、我慢ができずに久実の家まで来てしまった。
 ここは真弓たちがいた小学校の校区になるけれど、校区の建物が全部高級マンションというわけではない。この建物にもマンションという名前がついているけど、真弓たちの家とはずいぶん違う。
 見たところエレベーターはない。建物の左の端にあるらせん階段で、上がり下がりするみたいだ。久実の家があるのは三階だそうなので、わたしは階段を三階まで上がった。
 三階の廊下は何にもなく、殺風景でひっそりしている。四つか五つの扉があるけど、どこも部屋の番号が書いてあるだけだ。どの表札にも名前が入っていない。久実の家が三階だとまでは聞いたけど、部屋の番号までは聞いていなかった。
 わたしは何度か廊下を行ったり来たりした。そのうち誰かが出て来るんじゃないかという期待があった。だけど、どの家も留守みたいに物音一つしなかった。このどれかの扉の向こうに、久実がいるだろうにと思うとくやしかった。でも、呼びりんを押して間違っていたら大変だ。せっかくここまで来たのにと思いながら、わたしは階段を下りた。
 一階へ下りると、小さな郵便受けが並んでいる所があった。だけど、そこにも名前は一つも書かれていなかった。それに部屋の番号すら、書かれていない郵便受けもあった。
 下から建物の三階を見上げたけど、久美は出て来ない。他の人でもいいからと祈ったけど、やっぱり誰も出て来なかった。わたしは久実に会うのを諦めるしかなかった。

 とぼとぼと歩きながら、真弓の家にでも行ってみようかと思った。このままでは、今日一日独りぼっちで退屈だ。真弓に約束はしてないけど、行くだけ行ってみることにした。
 真弓が暮らす高級マンションに着くと、わたしは下からマンションを見上げた。真弓の家は十五階。上の方だ。やっぱり、わたしとは住んでいる世界が違う。
 わたしはマンションの入り口へ向かった。
 真弓の家には何度か呼んでもらったことがある。だから、どこが真弓の家なのかは知っている。でも突然訪ねたりしたら、驚かれるかもしれない。もしかしたら、呼んでもないのに来るなんてと、図々しく思われる可能性もある。それに、家族で出かけて留守ということも考えられる。
 不安な思いで玄関に着くと、わたしははっとなった。ここは外の人間が勝手に中に入れないよう、セキュリティがきびしいのだ。住人の許可がなければ、入り口の扉は開かないようになっている。
 扉の脇を見ると、数字が書かれたボタンが並んだ機械があった。機械にはマイクとスピーカーがある。これで住人の部屋の番号を押して、中の人に許可をもらうのだ。
 前にここへ遊びに来たのは、何週間か前のことだ。そのときは部屋の番号を覚えていたけど、忘れてしまった。確か初めは十五なんだけど、そのあとの数字が思い出せない。違う番号を押してしまっては大変だ。でも、番号が押せなければここから先へは進めない。
 わたしはがっかりしたけど、まぁいいやと思い直すことにした。
 真弓の家には百合子の他にも、同じマンションに暮らす似たような女の子たちも遊びに来る。そんな中にいれば、わたしは一人浮いてしまう。
 わたしはみんなが喜ぶような話題を提供することができない。いつも誰かが何かを言い出すのを待って、それに合わせてうなずいたり、はしゃいだりするだけだ。でも、本当に楽しいと思うことはめったにない。
 でも、今のわたしには久美がいる。今日は久美に会えなかったけど、だからと言って、わざわざ自分から気疲れするような所へ出向く必要はない。
 わたしはマンションの玄関から外へ出た。一度だけ真弓の家を見上げたあと、わたしは自分でも驚くほど清々すがすがしい気分で自分の家に向かった。だけど歩いているうちに、だんだん退屈な気持ちが蘇り よみがえ 、足は次第に重くなった。
 しょんぼりしながら家の近くまで戻ると、辺りをきょろきょろしている女の子がいた。久美だ!
「久美!」
 わたしはうれしさに駆け出した。振り返った久美も笑顔になって駆け寄って来た。
 久美はわたしの手を取ると、ほっとしたように言った。
春花はるか、外におったんか。うち、春花んとこに遊びに行こ思て来たけんど、どこが家なんかさっぱりわからんで往生し おうじょう よったんよ」
「ほんとに? わたしも久実と遊ぼうと思って、久実のマンションまで行ったんだよ。だけど、どこの家も表札に名前が出てなかったから、わからなくて帰って来たんだ」
「ほうやったん。ほれは悪かったね。ほやけど、いつ来たん? 全然すれ違わなんだね」
 真弓たちのマンションに立ち寄ったことが後ろめたくて、わたしは本当のことが言えなかった。
「帰って来る前にちょっと寄り道してたから、その間に久実が来たんだよ」
「ほうなんか。ほんでも春花が寄り道してくれたけん、よかったわい。春花が真っぐ家にんとったら、うち、どこが春花の家かわからんまま諦めてぬるとこやったわ」
 去ぬるとは帰るという意味だ。古風な言い方を面白く思いながら、わたしは言った。
「ほんとだね。危ないとこだった。間一髪ってやつだね」
 久美は女の子なのに親父みたいな言葉を使うのがおかしかった。それで、つい喋りながら笑ってしまった。だけど、久美はそれを二人が無事に再会できて、わたしが喜んでいると思ったみたい。わたしと一緒に笑いながら、久美は二人の運のよさを喜んだ。

「へぇ、ここが春花の部屋なん……」
 ベッドと机でほとんどいっぱいの狭い部屋を、久美は物珍しそうに見回した。
 壁には流行の男性アイドルのポスターや、好きなアニメのカレンダーを飾ってある。でも真弓や百合子とは好みが違うみたいで、こんなのがいいのかと二人して馬鹿にされた。
 果たして久美はどう反応するのだろう? どきどきしていると、久美はポスターを見つけるや否や、うれしそうに駆け寄った。
「うち、この人の大ファンなんよ。優しそうでええよね」
「やっぱり久美とわたしは気が合うんだね。この人のよさをわかる人って少ないんだ」
 わたしはすっかり安心したし、うれしかったけど、カレンダーに目を移した久美は、さらにわたしを喜ばせてくれた。
「うちもこれ、大好きやった。毎週見よったよ」
「ほんと? うれしい!」
 ちょっと待っててと言うと、わたしは台所へジュースとお菓子を取りに行った。こんなことは今までなかったと思うほど胸が弾んでいる。
 いそいそと冷蔵庫からジュースを取り出してグラスに注ぎ、戸棚に隠していたお菓子と一緒にお盆に載せると、わたしは二階の部屋へ上がって行った。
 お待たせ――と言って部屋に入ると、久美は窓の外を眺めていた。振り返った久美は、何だか暗く硬い表情に見えた。でも、それはほんの一瞬だけだった。お盆のジュースとお菓子を見た久美は、はしゃいで喜んだ。
 ベッドにお盆を載せて、その両脇に二人で座った。その拍子にジュースがこぼれそうになったので、わたしは慌てて二つのグラスを手に取り、一つを久美に手渡した。
「だんだん」
 久美はにっこり笑って言った。
「だんだんって、確か、ありがとうって意味だったよね」
「覚えてくれたんか。うれしいな」
愛媛えひめでは、みんな、だんだんて言うの?」
「今は誰も言わんな。これは古い方言でな、田舎のおばあちゃんがよう使いよったけん、ほれがうちにも移ってしもたんよ」
 久美は恥ずかしそうにしながら、ジュースを飲んだ。
「愛媛弁て、何かいいよね」
「だんだん。あ、また言うてしもた」
 二人でくすくす笑ったあと、久美は自分の言葉は愛媛弁ではなく、伊予いよ弁だと言った。
「いよべん?」
「うん。昔の言い方で、愛媛のことを伊予て言うんよ」
「なるほど。伊予弁ってさ、何か温かくて、気持ちが籠もってる感じがするね」
「そがい言うてくれるんは、春花ぎりやし」
 久実は沈んだ顔になると、悲しそうに言った。
「こっちでは伊予弁は珍しいけん、喋ったら小馬鹿にされるんよ。ほじゃけん、普通の言葉を喋ろとしてもな、やっぱし喋り方が違うみたいなけん、余計にからかわれるんよ」
 二組の生徒たちのことだろう。わたしは聞いていて腹が立った。
「でもさ、こっちの人だって愛媛に行けば、よそ者でしょ? どっちの言葉を使う人が多いかってだけの話だから、そんなに気にしない方がいいよ。だいたい言葉の違いのよさがわからない人なんて、全然大した人間じゃないからさ。相手にすることないよ」
 久実を慰めながら、自分でもなかなかいいことを言うなと思った。でも、久実は元気を取り戻すどころか、余計にしゅんとなったようだった。
「そうだ、久実が好きなことを教えてよ。久実って何が好きなの?」
 ここは話題を切り換えるのが一番。わたしは思いきり明るい声で久実に尋ねた。久実はしょんぼりしたまま小首をかしげた。
「花かな……」
「花? どんな花が好きなの?」
「桜とかチューリップとか、ヒマワリとかコスモスとか、誰でも知っとるような花も好きやけんど、道端にひっそり咲いとる、名前もわからんような、こんまい花も好きなんよ」
「こんまいって小さいってことでしょ?」
「ほうよほうよ。小そうてな、誰の目にも留まらんような花が好きや」
「何で、そんな花が好きなの?」
「ほやかて一生懸命咲きよるやろ? 誰っちゃ見てくれんし、誰っちゃ世話してくれんのに、一生懸命咲いとるやんか。ほれが健気けなげでいじらしいんよ……。ほれに、そのこんまい花に顔近づけてよう見てみたらな、結構珍しい形しよったり、愛らしい姿をしよるんよ。あれに気づかんのは損やで」
 喋っているうちに、久実は元気を取り戻したようだった。わたしの名前が春の花というのも何かの縁だと言い、あとで一緒に花を探すことになった。
「ところで、春花は何が好きなん?」
「え? わたし?」
 久実を元気づけるために聞いただけなので、自分が答える番になるとは考えていなかった。好きなものがないわけじゃないけど、いきなり聞かれると急には思いつかない。
「えっと……、絵を描くことかな」
ぇ? 春花、絵ぇ描けるん?」
「自慢できるようなもんじゃないけどさ。これでも一応は美術部に入ってんだ。でも、最初に美術部に入った動機はね、運動部に入りたくなかったから。わたし、運動苦手だからさ。でも文化部って美術部の他は、吹奏楽部と手芸部と英会話サークルしかなくてね。どれも向いてないみたいだけど、絵だったら、まだましかなって思ったの」
「よう言うわ。ぇなんてそがい簡単に描けるもんやないで。なぁ、春花が描いた絵ぇ、うち、見てみたい。何ぞあったら見せてや」
 ほんとだったら恥ずかしくて人に見せたりしないけど、久実の頼みだから断れない。
 わたしは家に持ち帰っていたデッサンやクロッキーを、ベッドの下の整理箱から取り出した。ほとんどが一学期に描いた練習の絵で、自分で見ても何だこれはと思うようなものばかりだ。
 それでも久実はわたしの絵を一枚一枚眺めながら、感動の声を上げてくれた。
 絵を一通り見て満足した様子の久実は、輝いた目をわたしに向けた。
「なぁ、うち、春花にお願いがあるんよ」
「お願い? 何?」
「一枚ぎりでええけん、うちにぇ描いてくれん?」
「え? 今? ここで?」
 久実は子供のようにうなずいた。久実だから特別に絵を見せたけど、頼まれて描くほどの腕じゃない。
 わたしは絵を描くための画用紙も鉛筆も、学校に置いてあると言い訳をした。でも、久実はそれで諦めはしなかった。広告の裏でもかまわないし、普通の鉛筆でもボールペンでもいいからお願いと言い、両手を合わせてわたしを拝んだ。
 普通の鉛筆しかないから上手うまく描けないかもと言うと、久実はそれでもかまわないと言って喜んだ。
 わたしは仕方なく無地の便せんに、普通の鉛筆で絵を描くことにした。
「じゃあ、そこにいてね」
 わたしは久実をベッドに座らせたまま、自分は机の椅子へ移動した。
「ひょっとして、うちを描いてくれるん?」
「絶対に期待しないでよ。できた絵を見て、何これ?――なんて言わないこと!」
「ほんなん言うわけないやん! だんだんな、春花」
 どういたしましてと言う代わりに、ちょっとだけ笑ってみせたあと、わたしはじっと久実を見つめて絵を描き始めた。
 わたしが目を向けるたびに、久実は恥ずかしそうに微笑んだ。でもモデル役なので、じっと身動きせずに座っていた。
 そのうれしそうな笑顔はほんとに素敵だった。仕方なく始めたはずなのに、手に持った鉛筆が勝手に動いて行く。
 いつの間にか夢中になって描いた久実の姿は、自分で言うのも何だけど、結構上手じょうずに描けていると思う。ほら、紙の中で久実の分身が、こんなにいい顔で笑っている。
 わたしの様子を見た久美が、できたん?――と期待の顔で尋ねた。
「できたのは、できたんだけど……」
「見せてや!」
 立ち上がろうとする久実を、わたしは制してもう一度座らせた。
 一応描けはしたけど、まだ未完成だ。わたしはこの絵に久実の雰囲気を出したかった。だけど、どうそれを表現したらいいのかわからない。ぼんやり久実を眺めていると、久実の周りに花が見えた。
 これだと思ったわたしは、目に浮かぶままいろんな花の絵を描き足した。知っている花もあれば、思いついたまま描いた知らない花もある。本当にそんな花があるのかどうかもわからない。それでもわたしには、久実が花に囲まれているイメージがあった。
 描いているうちに、なんでか久実の頭や肩に小鳥が乗っているように見えた。これはいいやと思って、小鳥も描き足した。すると、今度は膝の上にウサギが乗っている。面白いなと思って、これも描いた。
「久実ってさ、花が好きだって言ったけど、小鳥や動物も好きじゃないの?」
「うん。好きやけんど、ほんなことわかるん?」
「顔にそう書いてあるのよ」
 久実が驚いた様子で両手で顔を押さえると、頭や肩に乗っていた小鳥たちが、驚いて飛んで行ってしまった。代わりに、いつの間にか現れた子犬が二匹、久実の足にじゃれついている。ん? 一匹はちょっと変わってるな。もしかして、これってタヌキ?
 何でこんな物が目に浮かぶんだろうと、自分でもおかしくなった。久実が気にするのでこらえていたけど、どうしても顔に笑みがこぼれてしまう。
「何、わろとるんよ? もしかして、妙な顔を描きよるんやなかろね!」
 我慢しきれず立ち上がった久実から、絵を隠しながら何とか描き終えた。
「はい、完成しました!」
 久実は疑いの眼差しをわたしに向けながら、わたしが差し出した絵を受け取った。だけど、そこにある絵を見ると、大きく目を見開いた。
 同じように開かれたままの口からは、しばらくしてから、うそや――というつぶやきが漏れた。
「これ、ほんまにうちなん?」
「そうだよ。今回のは自信作だな。ちゃんとした画用紙に描けなかったのが残念」
 少し誇らしげに言うと、久実はぼろぼろ涙をこぼし始めた。やっぱり花や動物は余計だったかと、わたしはうろたえた。
「ごめん。でも、それね、別にふざけて描いたわけじゃないんだよ」
 久実は黙って首を横に振りながら、絵をそっと胸に抱きしめ、だんだん、春花――と言った。
 わたしはほっとして、涙のわけを聞いた。でも、久美は何も教えてくれなかった。
 学校の屋上で初めて久美と喋ったとき、わたしは久美の前で涙を見せた。あのときのわたしと同じように、久美も長い間、何かを胸の奥に隠し続けていたのだろう。それは学校でのいじめかもしれないし、もっと他のことかもしれない。友だちだから話して欲しい気持ちはあるけれど、無理に聞き出すのはよくないことだ。
 わたしは立ち上がると、黙って久美を抱きしめてあげた。久美は絵を胸に抱いたまま、わたしの肩に頭を載せて泣いた。

 しばらくして泣きやんだ久実は、わたしから離れて恥ずかしそうに笑った。
 わたしは安心したけど、次に何と言えばいいのかわからなかった。代わりにお腹がぐーっと鳴って、久美に笑われた。何だかいい雰囲気だったのに、お腹のせいでぶち壊しだ。
「なぁ、今何時やろか?」
 久美が辺りを見ながら尋ねるので、わたしはベッドの枕元にある、目覚まし時計を指差して、もうお昼過ぎだと言った。すると久美は慌て出した。
「うち、そろそろぬらんと」
「もう帰るの? まだ来たばっかりじゃない。それに、一緒に花を探すんでしょ?」
「ほうなんやけんど、うち、スーパー行かんといけんのよ。お母ちゃん、まだ治っとらんけん、お母ちゃんが食べられそうなもん、買いに行くんよ」
「じゃあ、わたしも一緒に行く!」
「え? ほんなん悪いし」
「いいのいいの。どうせ、することなくて暇なんだもん。一緒に行くよ」
 久美はうれしそうに笑うと、もう一度わたしが描いた絵を眺めた。
「なぁ、なんでうちの周りに、こがいな花とか小鳥とか動物、描いてくれたん?」
「なんでと言われてもなぁ。何となくそんな感じに見えたんだ」
 ほんまに?――と驚く久美に、それが久美の雰囲気なんだとわたしは言った。すると久美がまたちょっと泣きそうな顔になったので、わたしは久美を買い物へうながした。
 スーパーへ向かう道中、わたしたちは道端に咲く小さな花を探した。これまでそんな物を気にしたことがなかったので、意外にいろんな花があることにわたしは驚いた。
 久美は花の名前を一つ一つわたしに説明してくれた。その中に、わたしが想像して描いたのと似た花があった。
 久美はそれをうれしそうに指差すと、この花の花言葉は、『喜びも悲しみも共に』だと教えてくれた。それは、まさにわたしたちにぴったりだ。
 偶然とは言え、そんな花の絵を描いたことに、わたしは不思議なものを感じていた。それは久美も同じようで、春花と知り合えてほんまによかった――と何度も言ってくれた。